苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神を知る

王の戦い―受難週主日礼拝説教—

1 イエスの戴冠式 マルコ福音書では、イエス様は王として描かれていて、冒頭に預言者イザヤのことば「主の道を用意し、主の道をまっすぐにせよ」とあります。これは「王の御幸にそなえて道普請をせよ」という布告です。イエス様は「時は満ち、神の王国は近…

『神を愛するための教理問答』を公開します

苫小牧の教会の祈り会で用いて来た『神を愛するための教理問答』のPdf版を公開します。関心のある方、お用いください。ダウンロードもご自由に。https://1ab4c85d-7ef5-40e3-b99d-780b70ac09e5.filesusr.com/ugd/2a2fcb_467658f922df442dba1bcd1074282d89.pdf

書評『新・神を愛するための神学講座』

GPTに通読してもらった上で、出て来た書評です。 ① 位置づけ② 神学的評価③ 構成・方法論の評価④ 日本の文脈における意義⑤ 注意点・限界⑥ 総合評価の順で述べます。 ① 位置づけ ― 何の本なのか この本は、学術的な「体系神学書」ではなく、信仰的エッセイでも…

パスカルの「考える葦」の真意ーデカルトのコギトとの違いー

「人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体はなにも武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれを押し潰すときにも、人間は…

神学における知と愛と文体

「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」 1コリント8:1 私は、浪人生活の夏、以前書いたように増永俊雄先生(改革長老教会東須磨教会牧師)と出会って、「神の栄光を現わすための人生」というものがあるのだと知りました。そうして、翌年一月に神の…

アンセルムスー祈ること、知ること、生きること

一昨年から毎週火曜日夜に、教会の兄弟姉妹8人ほどでオンラインで「神学読書会」をしています。『新・神を愛するための神学講座』が出たのをきっかけに、「解説してほしい」という要望から始まったものなのですが、それを読み終えて、ボン・ヘッファー『共に…

エパタの出来事、創造の出来事の理解

「32人々は、耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださいと懇願した。33そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。34そして天を見上げ、深く息をし…

北海道聖書学院 カテキズムの授業

今週から北海道聖書学院の新年度授業がスタートします。1学期はカテキズムと、キリスト論・贖罪論です。カテキズムは数年前から「神を愛するための教理問答」というのを作成して用いています。これはここ半年くらい教会の朝夕の祈り会での学びという現場で…

神性の輝き

きのうの主日礼拝ではヨハネ福音書8章12節から20節を説き明かしました。イエス様が「わたしは世の光です。」とおっしゃると、パリサイ人は、「自己証言は意味がない」と突っぱねます。するとイエス様は、「いや、わたしは自分のことを正確に知っている…

インテリジェント・デザイン論に反論する人々

自然科学はHOWを問う学問であって、WHYは守備範囲外のことであるとしばしば言われる。こういうことを言いだしたのは、18世紀の哲学者インマヌエル・カントである。カントは人間は感覚器官によって外から情報を時間と空間という感性形式で取り込んで、それを…

聖書の創造記事について

1.通常の方法なのか、特別の方法なのか 神が被造物に対して行われる行為には、通常の方法と特別の方法がある。通常の方法において、神はご自分が定めたいわゆる法則をもちいて、被造物を導かれる。特別の方法においては、神は法則を超えて無から万物を創造…

創造の事実と信仰

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで無から創造されたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」(へブル11・2) 神は、万物を無から、ご自分のことばによって出現させるという超自然的方法…

神のご計画の全体を

私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。 使徒20:27(新改訳第三版) 使徒パウロはエペソの長老たちとの訣別のあいさつの中でこのように語っている。ここには使徒が説教をするにあたって心がけていたことが記されて…

聖書解釈の3側面 実例

今日は北海道聖書学院での2023年度最後のカテキズムの授業だった。対象は信徒コースと聴講生たち3人である。時間配分が今一つうまく行かず、最後に1コマ余ったので、聖書的教理体系をカテキズムで学んだ者として、実際に聖書を読んで行くときに、それ…

小畑進先生の説教チャート

ameblo.jp リンク先をごらんください。先日投稿したものではありません。

説教に向けての聖書解釈の3つの側面

表題の文章を、「神学ノート」に掲載しておいたので、ご一読ください。 清水武夫先生が神学校で言われたことについて、神学校卒業後、聖書解釈についてずっと考えて来たことです。 リンク先 ameblo.jp

聖書解釈における同時代文書の扱い・・・表面的類似よりも本質的相違

N.T.ライトは、新約聖書とほぼ同時代のユダヤ教文献から、1.イエスの時代のユダヤ人たちが「罪」として意識したことは、個人としての罪ではなく、神がイスラエルの民をその背信のゆえに、懲罰としてバビロン捕囚に遭わせ、その後も民族の主権は回復させて…

神様抜きで納得したいという衝動

主イエスが水の上を歩いてきたのはガリラヤ湖の浅瀬を歩いてきたのを弟子たちが見間違えたのだとか、イエスの復活というのは、弟子たちの心の中にあの優しく力強いイエス様がよみがえったことを意味しているのだ、などという人々がいる。このような人々は合…

神は愛であるということ

1コリント13章4節から8節には、愛の具体的な中身の説明が豊かに説明されている。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を嫉みません。愛は自慢せず高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず。怒らず、人のした悪を思わず。不正を喜ば…

文化命令でなく、神の王国建設命令

改革派神学では、創世記1章26‐28節および創世記2章15節を「文化命令」と呼びならわして来た。けれども、聖書全体に啓示された神のご計画の全体からいうと、むしろ「神の王国建設命令」と呼ぶ方がよいと思われる。 神のご計画の全体像を知るためには、創世記1…

神が人格であることと三位一体であること

多神教において、神々はギリシャ神話、古事記、北欧神話にみるように、しばしば個性豊かな人格的な存在である。その神々と人間との境界線はあいまいであり、神々はみな有限であり、不道徳でもある。多神教の神々は、人間の延長線上に空想されたスーパーマン…

神の愛

愛と義とを対立概念として説明する場合が多いが、それは聖書にかなっているだろうか。義の対立概念はむしろ「あわれみ」であろう。 聖書に「神は愛である。」(1ヨハネ4:16)とある。また、第一コリント13章では「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をね…

三位一体の神でこそ愛の神であること

今朝、宮前町三丁目を散歩しながら、三位一体の神ということは、神が人格的存在であり愛であられることと切っても切れない関係にあることを思いめぐらしました。 古代の哲学者は、多神教の不合理性には気づいていて、「第一原因としての神」という唯一神観に…

こんな本、売れるのかなあ?

今般発行された、『私は山に向かって目を上げるー信州南佐久における宣教と教会開拓ー』について、実は、「こんな本、売れるんかなあ?出版社の迷惑にならへんかなあ。田舎での伝道に関心持っている人なんてほとんどいないのだから。」と、私は妻と息子、出…

理性と信仰が対立しているのではない

理性と信仰が対立しているという誤解がある。だがもしそうだとすると、理性的な人は信仰を持たず、信仰的な人は理性がないということになる。しかし、これは明らかに間違っている。実は、理性と信仰が対立しているという考え方自体が間違っているのである。 …

聖書釈義の二大原則

神は聖書を霊感するにあたって、時代と場所を隔てたさまざまな40人ほどの記者たちの能力や性格や文化的背景や時代状況を用いて、それぞれの巻物を書かせられた。この事実から、聖書釈義には根本的な2大原則が引き出される。 第一の聖書釈義の原則は、その巻…

イエス様を信じると顔が輝く

教会に集っている中国人の姉妹のお母さんが、今日、イエス様を神の御子救い主としてはっきりと受け入れました。娘さんが通訳をしてくれました。 三位一体の神様のこと、神様と私たちを隔てているのが罪であり、その結果自分自身も隣人も愛せなくなって孤立し…

初めの愛に

昨日の礼拝の紙芝居で、ソロモン王が就任時には神に知恵を求め、その知恵をもって神殿建設、平和外交、貿易の展開、知識の探求など諸々の成果を上げたにもかかわらず、政略結婚のため諸国から娶った妃たちが母国から持ち込んだ偶像に惑わされて罪を犯したこ…

キリスト論を書くのが一番むずかしかった

『新・神を愛するための神学講座』を書いていて、一番むずかしいと感じたのは、キリスト論だった。多くの牧師たちがそうであるように、私がもっとも多くの説教をしてきたのは福音書であるのに、そこに記されたキリストについて考えて表現するのが一番むずか…

理性の再生

「理性と信仰」という主題は、古代教会からの課題であった。「アテネとエルサレムに何の関りがあろうか」といったテルトゥリアヌスは、アテネ(理性)とエルサレム(信仰)とはかかわりがないものであるとした。不合理なるがゆえに信ず、という立場である。…