苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

三位一体の神でこそ愛の神であること

 今朝、宮前町三丁目を散歩しながら、三位一体の神ということは、神が人格的存在であり愛であられることと切っても切れない関係にあることを思いめぐらしました。
 古代の哲学者は、多神教の不合理性には気づいていて、「第一原因としての神」という唯一神観にたどりつきました。つまり、他者を動かして自らは動かされない神という神観です。動かされないということは、感情がないということです。英語で「感動した」はというと、感情とは動かされるものですから。キリスト教神学は、その形成において、プラトンアリストテレスの哲学を援用しつつ考えたために、神には感情がないということなりました。聖書に現れる神のあわれみや怒りや悲しみや悔いといったさまざまの表現は、神につばさがあるわけではないけれど、「御翼の陰にわたしをかとくまってください」と表現されるのと同じようなものだとされてきました。でも、これは哲学的観念における神にすぎません。哲学者の神は、生ける神でなく死んだ神です。

 こうした「神には感情はない」という長い伝統があったので、現代になって現れた北森さんの「神の痛みの神学」が驚きをもって迎えられたわけでした。
 私は、神が父・子・聖霊の交わりの人格的神であられることのうちに、神が感情をお持ちのお方であるということが含まれていると考えています。神は三位一体であられるからこそ、愛なのです。

 神が世界を創造なさる前、神のみが存在し、神以外には何も存在していませんでした。もし神が単に一者であるお方ならば、その神が愛であることは不可能でした。なぜから、聖書でいう愛とは自己を愛する愛でなく、他者へと注ぎだされるものです。しかし、真の唯一の神はその中で、父は子を愛し、子は父を愛するというふうに、聖霊にある愛の交わりがあったのです。ですから、世界が存在しなくても、三位一体の神は愛でいらっしゃいました。その愛があふれ出るようにして、神は愛の対象としての世界を造られました。・・・このように説明できるでしょうか。