苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神様抜きで納得したいという衝動

 主イエスが水の上を歩いてきたのはガリラヤ湖の浅瀬を歩いてきたのを弟子たちが見間違えたのだとか、イエスの復活というのは、弟子たちの心の中にあの優しく力強いイエス様がよみがえったことを意味しているのだ、などという人々がいる。このような人々は合理的説明を聞いたらなぜ安心するのだろうか。それは、そういう人々がもっている根本的な世界観が「世界は閉じた系であって、およそ世界の中に起こることがらはすべて、世界の中に原因があって、世界の中で説明できる」というものだからである。

 このような世界観は18世紀の啓蒙主義思想の時代に生じて来た。啓蒙思想家は神は世界を創造したけれども、創造した後は、神はこれに手を出すことをしないので、世界はそれ自体の法則をもって運営されていると信じた。これを理神論(デイズム)という。カントの認識論は、科学の対象は現象界のことであり、英知界に属する神は科学の対象外であるとしてしまった。さらに19世紀になると、多様な生物種の出現を偶然によって説明できるとする進化思想が登場し、これをテコとして無神論が流行するようになった。無神論(唯物主義)は、そもそも英知界なるものは存在せず、現象界がすべてであるとして、神も魂も自由もすべては、人間の脳という物体が作り出した虚構だとする。

 人間は、善悪の知識の木の実を食べたとき以来、世界から神を排除したいという暗い衝動をもっている。有神論から理神論へ、理神論から無神論へという近世・近代の思想の流れは、それをよく表している。


 近代聖書学は、そういう時代に出現した。<世界は閉じた系であるから啓示はありえない>という信念からすると、聖書をなす66巻の古文書群もまた、ほかの古文書と同じく、人間が生み出した文化現象にすぎないことになる。この世界観からすれば、聖書のある巻が書かれた同時代の周辺文化の中に、その巻の記述に類似した事柄を見つけると、周辺文化との類似性から解釈することができると考える。たとえば創世記1章の創造記事とバビロンやカナンの神話とちょっと似ているところを見つけると、そのバビロン神話の色眼鏡で創世記を読み、ヨハネ文書の中にギリシャ思想と似ていることばを見つけると、ギリシャ思想の色眼鏡をかけてヨハネ伝を読み、同時代のユダヤ教文書の文言と新約聖書がちょっと似た文言があると、その色眼鏡でパウロ書簡や福音書を読めば、これでわかったと主張する。だが、これらは世界は閉じた系であるという、理神論・無神論者の信念に基づいた主張なのである。

 神は聖書記者を選び、その時代のその地域の言語をもちいて聖書啓示をお与えになった。だから同時代の言語・文化は参考にはなる。しかし、その時代・その地域の言語はいわば神がもちいた器にすぎないことを忘れてはならない。神からのメッセージは、その器ではなく、器に盛られたものであることを弁えねばならない。

 啓示としての聖書を解釈するにあたっては、同時代の言語や思想や習俗との類似を見つけて、その観点から説明するのは早計というか、方法論的に間違っている。なぜなら聖書は同時代の文化から生じたものではなく、同時代の文化という器に神がメッセージを載せたものだからである。これを宮村先生は、聖書の神言性と人言性と表現された。正しくは、聖書の記述の中に周辺文化との表面的類似を見つけたら、似てはいるけれども本質的に相違していることを注意深く読み取ることこそ肝心なことである。そこにこそ周辺文化から生じたのではない、聖書啓示の特質があるからである。そこに神からのメッセージのしるしがあるからである。

 たとえば奴隷の扱いに関する記述が出エジプト記の律法の書に出て来る。これを奴隷制のない現代と比較して、「奴隷制反対」と言ってみてもほとんど意味がない。比較すべきは古代オリエント世界において奴隷がどのような扱いを受けていたのかということである。そうして古代オリエント世界の奴隷制との相違点は何かという観点をもって比較するならば、神からのメッセージが見えて来るにちがいない。もしかすると、律法においては、奴隷であっても安息日はやすませて神をともに礼拝させたこと、年期があけたら解放することといった特徴が、オリエント世界の奴隷制との違いとして浮かび上がってくるかもしれない。そうすれば、神はたとい奴隷であっても、神のかたちに従って創造された者として尊厳を与えておられるのだというメッセージを読み取ることができるだろう。