苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書解釈の3側面 実例

 今日は北海道聖書学院での2023年度最後のカテキズムの授業だった。対象は信徒コースと聴講生たち3人である。時間配分が今一つうまく行かず、最後に1コマ余ったので、聖書的教理体系をカテキズムで学んだ者として、実際に聖書を読んで行くときに、それがどのように役立つのかということを創世記1章を用いてお話した。

 聖書解釈にあたっては、状況的、規範的、実存的の3点が大事である。

 まず創世記1章の創造記事が書かれた状況について。モーセがエジプト脱出を果たしたイスラエルの民を相手に神のことばを伝えているという状況である。イスラエルの民は、月、星、太陽、ナイル川、オオカミ、山犬、フンコロガシ、ワニなどありとあらゆるものを神格化して拝んでいるエジプトに400年も暮らしていた人々である。この状況をわきまえるならば、創世記1章の創造記事の意図するメッセージは、「あなたがたがエジプトで見てきた、神々として祀られているものは神ではない。真の神は、これらすべてを造ったお方だけである。」ということだとわかる。

 こうして第二に、この創世記1章の記事から読み取れる規範的なことは、「真の神は唯一のお方、創造主である。」という教理だということがわかる。また「あなたにはわたしのほかに他の神々があってはならない。」という十戒の第一戒である。

 そして第三に、創造主なる神のみが礼拝すべきお方であるという教理を、「私の生活にどのように適用すべきか?」と実存的につきつめることである。自分の生活の中で創造主以外のものを、神としていることはないか?と自問してみる。クリスチャンであれば、あからさまな偶像崇拝はしていないだろうが、もし神よりも世間体を恐れていたら世間体を偶像としていることになる。また、トイレで腰を下ろしても、電車でつり革にぶら下がっても株価の上下が始終気になって仕方ないならその人は金銭を偶像化するマモニズムに陥っているのである。自分が偶像崇拝の罪を犯して来たことを神の前に告白して、悔い改める必要がある。