苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神様のおちょくり(2)

 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。(マタイ15章22-28節)

 神様のおちょくりについて、ほかに思い当る個所は、カナン人の女が娘の癒しを求めて、主イエスのもとにやってきた場面です。イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて、子犬にやるのはよろしくない」とつっぱねますが、女は「子犬でもテーブルから落ちたパンくずはいただきます。」と応じました。イエス様は彼女の信仰に驚いたとあります。この出来事についてルターは説教の中で、神の異なるわざとか、隠れたる神という観点から説いています。私たちが神に近づくとき、神は私たちに恐ろしい形相をもって応じたまうことがある。けれども、私たちはキリストの福音に対する固い信仰によって、その恐ろしい形相の向こうに神の温顔を見なければならないというのです。

 ルターの場合は深刻調ではあるのですが、豊田師風にいえば、まさにこの個所は神様のおちょくりなのです。イエス様が「犬にやるパンなんかあるかい」とボケたら、ちゃんと「せんせー犬かて子どもがおとしたパンくらいは食べまっせ。」とうまいこと突っ込んだ。「おーたいしたもんや。あんたの突っ込みは。」とイエス様が驚いたわけです。たしかにカナン人の女は、too seriousにならない信仰者の余裕をもっていましたね。

 コロナ騒ぎの中で、世界中が余裕をなくしていらいらしている人たちが増えているそうですが、このようなとき、神の子どもたちは、too seriousにならず余裕をもっていたいものです。