ことば
人生には学ぶべき教材が、ごろごろところがっている。学校を出ていないということもまた、一つの教材である。貧しいことも、体の弱いことも、失敗も失恋も、人との不和も、そしてまた、順境も逆境も、学ぼうと思えば、すべてが教材なのである。朝起きた瞬間…
岩波版新約聖書でヨハネ福音書1章1節を小林稔氏は「はじめに、ことばがいた」と訳した。これに対してはずいぶんと批判もあったそうである。小林氏の意図するところは、ことば(ロゴス)が単なるストア哲学がいうような原理といったモノでなく、生命ある人格…
クラスターとかオーバーシュートとかカタカナ英語が報道に踊っていて醜い。カタカナ英語は、日本人もわからないし、英語国民もわからない、単なる業界の隠語にすぎない。集団感染、爆発的感染といえばよいだけのこと。英語の堪能な外務大臣が指摘してくれて…
大先輩S牧師のことば。心に残ったので備忘録として。 私達の働きは、「何かしたと思っていたら何もしていなかった」「何もしなかったと思ったら大きなことをしていた」ということかもしれないですね。 マタイ25章の王のさばきを思い起こしました。
非常に多くの人たちが誤用していることばとして「姑息(こそく)」があります。どうも書いている人は「姑息」を「卑怯」という意味だと思い込んでいるようです。実際には、「姑息」とは「まにあわせ」という意味です。
どういうわけか、さまざまな文章の中や会話の中で、「ナイーブな人」というのが、どうも「繊細な人」という意味で用いられているようです。けれども、「繊細な人」ならば、「デリケートな人」です。「ナイーブな人」とは正しくは「素朴な人」「うぶな人」「…
序 10年ほど前に信州で行っていた中学生のために作文教室ノートの第三章です。 高校受験で、小論文が課せられることがある。その場で、例えば「環境問題についてどう考えるか?」「インターネットについて」などといった課題がいきなり出されて、30分や1時間…
1.意見文は、ある事柄にかんする自分の主張を、読者の頭と心に伝えることを目的としている。したがって、書き手は、まずある事柄について自分の明確な意見を持たなければならない。自分が伝えたい事柄がはっきりしていなければ、伝えることはできない。 2…
もう10年も前、中学生たちを相手に作文教室をしていたことがありました。教会のメンバーのS兄が奨めてくれて始めたことです。作文教室で意図したことは、基礎学力の養成です。 一つは人はことばを用いて考えますから、ことばを筋道立てて用いることが出来る…
現代のかな表記はじつにでたらめで困ってしまう。たとえば、「講師」「公使」「孔子」「行使」は「こうし」とルビをふりながら「コオシ」と読ませるのに、「子牛」は同じように「こうし」とルビをふりながら「コウシ」と読ませるという矛盾がある。表音化を…