予告してから、だいぶ時間がかかりましたが、ようやく出版にこぎつけました。神様を求めている人には、役に立つと思います。はしがきを掲げておきます。アマゾンで手に入ります。
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はじめに
「神を知ることから、神を愛するまでには、何と遠いへだたりがあることか!」ブレーズ・パスカル
1978年1月半ば、大学浪人の身であった私は神の前に悔い改め、教会に通い始めました。前々年、高校3年の秋に身辺に起きた痛ましい出来事によって、自分の心の醜さを知らされて以来、生きる目的は何なのかと探しあぐねていたのです。教会に通い始めて、「人のおもな目的とは、神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことである。」ということばを知りました。闇に差し込んだ一条の光でした。崇高な人生の目的を聞きかじって、私は偉くなった気分になってしまいました。キリストが十字架にかかられたのは、そんな愚かしいほどに傲慢な私の罪のためだったのだと悟るまでには、しばらく時間が必要でした。
この経験が、私が40年あまり「神を愛するための神学」を追求し続けてきた理由です。前著『神を愛するための神学講座』は1990年度、友人山口陽一牧師の仕えていた徳丸町キリスト教会(日本同盟基督教団)の夕礼拝で月に一度語らせていただいた教理説教原稿を綴じた水色のB6版の小冊子が原型でした。幸い、熱心な読者を得て増補しつつ第四版まで発行しましたが、品切れ後は私のホームページに掲載して自由に読んでいただいてきました。
一方、本書は説教集ではなく、最初から「神のご計画の全体」(使徒20・27)を体系的に理解するための手助けをする本として書き上げました。月刊誌『舟の右側』に連載したものが元なのですが、わかりやすくするために全面的に相当ペンを入れ、新しい章も加えています。本書には、前著『神を愛するための神学講座』発行後、この30年間に教えられてきたことが全体に加わっていますので、ここでいくつかの特徴を紹介しておきたいと思います。
第一は、聖書啓示の特徴と、それにふさわしい解釈のあり方について触れたことです。聖書啓示が真理の源泉ですから、その解釈が本書の土台です。神論において、世の哲学思想との比較をしていますが、それはあくまでも聖書啓示を明確にするためであって、それ意外の意図はありません。また聖句主義に陥らず聖書主義でありたいと志しているので、各教理の根拠には文脈から切り離された聖句でなく、聖書解釈が提供されています。
第二は、古代教会が信じていた「『神のかたち』のかたち」としてのキリスト論的人間論が加えられたことです。これは大きな変化です。旧新約聖書六十六巻は神のことばであると信じる私たちは、聖書を一冊の神の啓示の書として読んだ古代教父、宗教改革者の成果に、もっと謙虚に耳を傾けるなら、有益なことが多いと感じています。
第三は、第二と関係していますが、創造から終末に至るまでキリスト論的に把握できるように意図したことです。その鍵は「『神のかたち』としてのキリスト」です。
第四は、神の王国の完成を目指して、創造から終末へと進んでいく旧約聖書の諸契約が、キリストの契約において集約・成就されていく展望を加えたことです。
第五は、キリストの贖いの職務「王であり祭司であるキリスト」をもって、救済論(義認・聖化・子とすること)の土台としたことです。ここでも古代教父と宗教改革者に学ぶところ大でした。
第六は、救済論については、ローマ書1章から8章の叙述の順序(義認・聖化・子とすること)にしたがって解説したことです。ここでE・P・サンダース、N・T・ライトについて若干触れました。
第七は「教会と国家」に関する章を加えたことです。このテーマは旧新約聖書と二千年におよぶ新約の教会の歴史に流れていることですし、また今日、教会が世にあってどうキリストに従うかに関して大切な課題です。
第八は、終末に関して三つの章を加えたことです。世界終末論における再臨の前兆の理解の鍵は、寄せては返す波のような「産みの苦しみ」の理解であると考えています。
前著に比べて分量が大きくなりましたが、筆者は教会に仕える牧師ですから新説を唱えることは目的としていません。本書は、聖書六十六巻を神のことばとして読んだ教会史上の先輩たちに範を得ながら、聖書に根差して、神を愛する教会が建て上げられるお役に立つことを目的としています。(付け加えたいメモ:ただし、「これは!」と思う新しい、あるいは古代教会で知られており長年忘れられていたけれど重要で有益な知見は紹介しました。)読者として想定したのは、神を愛し教会を愛し聖書を愛する信徒・教職です。ですが、注がまばらだった原稿を読んでくださった友人が、「後学のために脚注・出典を充実してはどうか」というアドバイスをくださったので、それもそうだと思って、実際に手に入るような本を紹介するために「注」を充実させてみました。また神学用語に折々外国語が入っているのも、同じ意図です。
本書が、もし神を慕い求めている読者に少しでもお役立つならば、筆者にとっては大きな喜びです。
2021年 3月27日 北海道苫小牧にて 著者 」