苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

キリスト論を書くのが一番むずかしかった

 『新・神を愛するための神学講座』を書いていて、一番むずかしいと感じたのは、キリスト論だった。多くの牧師たちがそうであるように、私がもっとも多くの説教をしてきたのは福音書であるのに、そこに記されたキリストについて考えて表現するのが一番むずかしいとはどういうことだろう。

 神学の伝統的方法では、キリスト論はキリストの二性一人格によってキリストが神であり人であることを明らかにし、三職二状態でキリストの王・祭司・預言者としてのお働きはどういうものであるかを記述する。実際、最初このようにして書いてみたら、一応バランスよく要点を押さえてキリスト論を書くことはできた。だが、それだけでは福音書において躍動する主イエス、そして私たちの日常の信仰生活の中で、私たちを見つめ語り掛け助けてくださっている生けるキリストが見えないなあと感じないではいられなかった。そこで私は福音書で行動し語られる主イエスのお姿を思い起こしつつ、キリストについての章を書くことに努めてみることにした。

 もう一つ伝統的方法で記述されたキリスト論は、神学が論争の学としての側面を持つゆえにありがちなことなのだが、創造から終末にいたる神のご計画全体の中でのキリストを十分には表現していないということである。つまり、キリスト論の歴史の中では、神性と人性をめぐる論争が多く行われたので、その比重が大きいのに対して、受肉以前のロゴスについては十分考えられて来なかったということである。この点については意識して、旧新約聖書全体、神のご計画全体の中でのキリストが見えてくるようにと願って論述を進めた次第である。

 このように意図して、私なりにキリストに関する章を書いてみたのだが、それがどれほどかなっただろうか。そういえば、レオナルド・ダ・ビンチの最後の晩餐を見ると、十二人の弟子たちの表情はそれぞれ個性豊かに描かれ完成しているのだが、中央のキリストの顔だけはなにか未完成で、レオナルド自身、どう描いてよいのかわからないままに終わったのではなかろうかという印象がある。

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