苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

理性の再生

 「理性と信仰」という主題は、古代教会からの課題であった。「アテネエルサレムに何の関りがあろうか」といったテルトゥリアヌスは、アテネ(理性)とエルサレム(信仰)とはかかわりがないものであるとした。不合理なるがゆえに信ず、という立場である。他方、ユスティノスはプラトンの哲学を思想的基盤として、古代の哲学は真理にいたる準備段階であると考え、キリスト教こそが唯一の真理であると考えた。哲学の中に見える断片的真理は、種のようなロゴスであるとし、まことのロゴスはキリストであるとした。理性による真理の把握の延長線上に信仰による完全な真理があるという考え方である。

 中世のトマスの「自然と恩寵」の考え方はユスティノスと類似している。ここでいう恩寵とは啓示を意味し、自然とは自然的理性を意味している。「恩寵は自然を破壊せず、これを完成する。」という。彼の神学大全を見れば、ある問いに対して、アリストテレスなど哲学者の答えを紹介し、教父の答えを紹介し、そして聖書の答えを出すという風になっている。理性と信仰の総合によって真理に達するということである。

 改革者ルターは、哲学的思弁を排してひたすら聖書に基づく神学を志している。アリストテレスを忘れなければ神学はできないと考えたのである。つまり、ルターはテルトゥリアヌスと軌を一にするということができよう。

 ここまでまとめると、理性と信仰を対立的にとらえたのは、ルター、テルトゥリアヌスであり、理性と信仰を連続的にとらえたのは、ユスティノス、トマスである。

 驚いたことにもう40年以上も前のことになるが、私は大学時代、理性と信仰の問題について悩んだ。自分の場合、理性的探求を続けていった結果、キリストにある真理に至ったのではなかった。キリストを信じたのちに、聖書を読み、神学書・信仰書をさまざま読んで考えて、さまざまな謎が解けていった、というのが事実である。信仰を持ったら、理性はいらなくなったのではなく、逆に、キリスト信仰をもってから理性はむしろ活性化して、さまざまな物事が見えてきたというのが実感だった。

 理性と信仰を対立するものと考えるならば、信仰者は理性を無視すべきだということになってしまうが、実際には、優れた神学者たちはみな優れた知性をもって思考していることはいうまでもない。そもそも、「理性と信仰」という表現自体が間違えているのであるということを、たしかコルネリウス・ヴァン・ティルとその系譜の神学(弁証学)から答えを得た。春名純人氏の論文だっただろうか。カギは「理性の再生」ということである。アダムの堕落にあって、人間の理性は死んでしまっている。人は聖霊によって理性を再生してしていただく必要がある。つまり、世には未再生の理性と再生した理性があるのである。対立しているのは理性と信仰ではなく、未再生の理性と再生した理性なのである。再生した理性はキリスト信仰によって再生したのであり、未再生の理性は自然主義とか無神論とか多神教など「異なる信仰」によって未再生の状態にある。

 この見解の根拠は聖書にある。

「十字架のことばは滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(1コリント1:18)

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。御霊を受けている人はすべてのことを判断します。」(1コリント2:14,15)

 文脈上、ここで「御霊に属すること」とは「十字架のことば」である。御霊によって再生した理性は「十字架のことば」を理解することができるが、再生していない理性は「十字架のことば」を理解することができないと聖書は教えている。

 実践的にいえば、祈りなくして聖書の教えをどんなに説いたり学んだりしても無駄であるということである。聖書を読む人はたといまだ神様を信じていなくても、ぜひ「神様(もしいらっしゃるならば)、私が今読むことばがわかるように私の目を開いてください。」と祈ってから読んでください。