苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

初めの愛に

 昨日の礼拝の紙芝居で、ソロモン王が就任時には神に知恵を求め、その知恵をもって神殿建設、平和外交、貿易の展開、知識の探求など諸々の成果を上げたにもかかわらず、政略結婚のため諸国から娶った妃たちが母国から持ち込んだ偶像に惑わされて罪を犯したことを話した。

 今朝、開いたみ言葉は第二歴代誌14-16章。南ユダ王国のアサ王は若い日には神に忠実に大胆に治世を行ったが、後年、北イスラエルから攻撃されたときアラム(シリア)の王に背後から北イスラエルを攻めてくれと依頼したという。預言者は、朝を責めて、「あなたはアラムの王により頼み、主により頼まなかった」と非難のことばを語った。さらに、晩年、アサは両足とも病気になったが、主を求めず医者を求めた、とある。

 信仰生活が長くなれば信仰が成熟していくとは限らない。主に頼るよりも、自分の経験とか知識とか世のものに頼るようになってしまうことがありがちである。自戒せよとの教えをいただいた。「あなたは初めの愛から離れてしまった」と黙示録2章4節にある。

 

追記>黙示録2章4節の文脈は、人生経験があだとなるということではない。エペソ教会が偽教師のの教えに惑わされなかったことをほめた後のことばである。真理の擁護にシャカリキになっているうち、「初めの愛から離れた」というのだ。人生経験にかぎらず、真理を擁護しようとする熱心が、そうした結果をもたらす場合もある。正統主義の罠ということか。
 人生経験にせよ、真理への熱心にせよ、それ自体は良いものであるが、その良いものに頼り熱心になりすぎるとき、神への愛が薄れることがある。