苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

北海道聖書学院2021年募集要項

学院紹介
 聖書信仰に立った、聖書神学・組織神学・歴史神学・実践神学のバランスのとれた学び。
 本科生5名の丁寧な塾的教育。
 寮生活、安い学費。
 美しい北海道の大地。
 結構、よい神学校です。

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本科生募集要項
<入学資格>
本科生については、以下の入学資格を設けております。
新生の経験とともに、主の働きへの召命が明確である者
教会員として1年以上教会生活を経た、教会の推薦のある者
本学院の規則と精神に喜んで従う者
入学試験(筆記・面接)に合格した者
外国人の方は、日本語検定2級資格を必要とする
外国人の方は、日本における所属教会を得ること
<入学願書に添付すべき書類>
下記書類を取り揃えて、本学院事務局へご提出ください。
入学願書(本学院所定の用紙を使用すること)
救いの証、召命の証(それぞれ1200〜2000字)
受験者本人の人格、信仰、勉学能力を保証する所属教会の推薦状
戸籍抄本
最終学校の成績証明書
健康診断書
受験料(10,000円)
<願書の取り寄せ>
入学希望の方は、郵便小為替500円分、または500円の切手を添えて
本学院事務局までお申し込みください。
 〒003-0831
北海道札幌市白石区北郷一条
3丁目1−61
電話:011-871-7892
FAX:011-871-7899
*試験科目 聖書知識・一般常識(英語、作文)、
      面接     
*試験場 北海道聖書学院  
*受験料10,000円入学試験(2021年度)
願書締切第一期:2021年1月12日(火)
    第二期:2021年2月16日(火)
試験日 第一期:2021年1月25日(月)
    第二期:2021年3月1日(月)
*合格発表 試験および面接の後、当日中に発表します。
*入学手続き 及び、入学金納入
合格者は、入学式当日までに次の各手続きを完了しなければならない。
入寮届けの提出(用紙は合格通知とともに渡す)
入学金納入 40,000円
傷害保険料(年間)5,000円(参考:2019年度)
入学後の諸費用入学後に要する費用は、以下の通りです。
授業料   20,000円(毎月)×12回=240,000円(年間)  
寮費15,000円(毎月)×12回=180,000円(年間)
食費144,000円(年間:12回分割可)※ただし、時価により変動があります
海外研修積立費7,000円(毎月)×12回=84,000円(年間)

トラックばかり

 気がつけば、町を走る車は、みーんな「トラック」の形をしている今日このごろ。セダンやクーペが珍しくなってしまった。セダンが全然売れないので、とうとう「いつかは」とか言ってたクラウンも廃番になるとか。中古市場でも値崩れ状態。
 実用性からいうならば、たしかに「トラック」型がいいのですよね。セダン、クーペの場合、後部座席に座る人はしばしば、日射で後頭部が熱くてたまらないけれど、「トラック」型ならそれがない。それにトラック型だと、なんといっても荷物が乗って、中のスペースが広くなりますからね。
 でもトラックばかりの車道の風景は、なんだか物足りなく感じてしまうきょうこのごろ。

神の王国の視点で聖書を鳥瞰する

神は世界を創造して、人間にご自分の代理としてこれを治めるように命じた。すなわち、神のご支配(王国)を地にもたらそうとした。(創世記1:26,27)

 

 しかし、人間は悪魔に誘惑され、神に背いて堕落し(創世記3章前半)、罪と悲惨と死、悪魔の暗闇の圧制下に置かれることになった(コロサイ1:13)。そこで、神は「蛇の頭を打つ女の子孫」の到来の約束を与えた(創世記3:15)。

 

 イエス・キリストは、王として来られた。王の到来とはすなわち王国の到来である。「悔い改めなさい。天の王国が近づいたから。」(マタイ3:2)これが初臨。初臨から再臨までの間の期間(世界宣教の期間)を聖書は「終わりの時(日)」と呼ぶ(へブル1:1,2)。

 

 十字架で贖罪のわざを完成し、昇天して王座に着いたキリストは(エペソ1:22,23)、教会にみことばの教師たちを立て、みことばによって教会を統治する(エペソ4:7-11)。キリストの名において集い、みことばが語られ、聴かれるところに、王なるキリストは現臨し(マタイ11:20、ヨハネ14:20,26)、神の王国が現われる。

 

 やがて王なるキリストは世の終わりの終わりに再び到来して、神の王国は完成し、神の民はキリストの共同相続人として王として、世を治める    (黙示録21,22章)。

ケルビムが見ているもの

創世記3:22-24、 出エジプト25:20 -22、ローマ3: 25

2020年11月23日 HBI牧田吉和先生特別講義の日のチャペル

 

22,神である主はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」

23,神である主は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。

24,こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。(創世記3章22-24節)

  

20,ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『宥めの蓋』の方を向くようにする

21,その『宥めの蓋』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしの板を納める。

22,わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。出エジプト25:20-22)

  

神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。(ローマ3: 25)

 

1.神のように、善悪を知るように・・・自律的人間観

 

 善悪の知識の木の実を盗って食べたアダムとエバは園から追放されることになります。なぜでしょうか。「3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」ということが、その理由です。

神は人はわれわれのひとりのようになった」つまり、「人間が神のようになった」とおっしゃいます。どういう意味でしょうか?

本来、「何が善であり何が悪であるか」ということは、創造主である神が知ってお定めになることであり、被造物である人間は、神の定めた善と悪に従って生きるべきものです。ところが、人は、己の分をわきまえず、自分で善悪を知っていると思い上がりました。「俺が好むことが善であり、俺が好まないことは悪だ」というのです。人生の王座から神を押しのけて、自分が王座に座って善悪を定めようとするものとなったのです。「神なしの人生観」を志すようになったのです。この神を、人生の王座から押しのける自己中心こそが、罪の根本的性質です。

その他のもろもろの罪と悲惨は、この自己中心性から生え出て来たものです。その証拠に、親不孝、殺人、姦淫、盗み、偽証、貪欲などもろもろの罪の根っこには、必ず自己中心な思いがあります。ナイフで人を刺し殺そうとする人が、「この人、グサリとやられたら、どんなに痛いことだろう。この人の親や妻や子供は、この人が死んだら、どんなに悲しむだろう。」と思いやりを持っていることはありません。ただ、自己中心の怒りの感情に任せて、殺人を犯します。盗みも、偽証も、親不孝もみなそうです。

しかし、「私は神に頼らずとも、立派に生きて行くことができる。実際、私は親不孝も殺人も姦淫も偽証もしたことがない。」という人もいるでしょう。しかし、「神に頼らずに生きていける」という、その思いこそ、神の前では、傲慢という罪です。事実、全ての人は毎日、食べ物も水も空気もいのちそのものも、神に供給していただいて生きています。神に頼らないで生きられる人など一人も存在しません。もし、神に背を向けていながら、親不孝も殺人も姦淫も偽証もしたことがないという人がいたら、それは、たとえて言えば、運転が上手な無免許のドライバーです。その人はどんなに運転が上手であっても、有罪です。どんなに立派な生活をしていても、神に背を向けていたら有罪です。

 

2.ケルビムが監視しているのは

 

 ちりから造られた被造物にすぎない人間が、神なき人生こそ立派なことだと思いあがって、様々な罪を犯し、互いに傷つけあう悲惨な状態に陥りました。そこで、神は人間をいのちの木から遠ざけるため、園から追放します。そして、彼らがいのちの木から取って食べることがないように、いのちの木への道を守るためエデンの園の東にケルビムという御使いが、番兵として配置されました。ケルビムは炎の剣をもって、不用意にいのちの木に近づき神の聖をけがそうとする者を斬り伏せるのです。

 創世記3:24 こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。

  ここにジレンマがあります。聖書において「いのち」とは神との交わりうる状態を意味し、「死」とは神との断絶を意味しています。ところが、罪ある者が罪をきよめられないまま、神に近づくならば、神の聖さに撃たれて死ななければならないというジレンマです。「いのち」を求めて神に近づきたいけれど、神に近づくと、己の罪ゆえに神に撃たれて死んでしまうのです。実際、旧約聖書を読むと、神の御顔を仰ぎ見てしまった人々は、「自分は死ぬ」と叫んでいます。青年イザヤや神殿で神の臨在にふれて言いました。「ああ私はもうだめだ。私はくちびるのけがれたもので、くちびるのけがれた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(イザヤ6:5)

 

ケルビムは、主の御座を護る天使です。後にモーセの時代に、神が啓示された幕屋の設計によれば、ケルビムは幕屋の周囲の幕(出エジプト26:1)、そして、聖所と至聖所を隔てる垂れ幕(出エジプト26:31)に織り出されました。そして、至聖所に置かれる契約の箱のふたの上に、黄金の彫像を作って配置されることになります(出エジプト25:18-20)。幕に織り出されたケルビムの図も、宥めの蓋の2つの彫像も、「ここは神の臨在される場である。不用意に近づくな!」という警告を意味します。

今日は、特に、幕屋の最も奥の至聖所に置かれた、契約の箱の宥めの蓋の上に配置されたケルビムに注目しましょう。契約の箱のふたは、カポーレットといって、新改訳聖書2017は「宥めの蓋」と訳しています。この二つのケルビムの間から、臨在する主の御声が聞こえたのです。

20**,ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『宥めの蓋』の方を向くようにする

21**,その『宥めの蓋』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしの板を納める。

22**,わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。出エジプト25:20-22)

注意すべきは、ケルビムは「宥めの蓋の方を向くようにする」(20節)とある点です。ケルビムはなぜ上を向かず、前を向かず、横を向かず、うつむいて「宥めの蓋の方を向くように」造らねばならなかったのでしょう?イザヤ書6章に、青年イザヤが神殿で主の臨在にふれたとき、天使のセラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。その栄光は全地に満ちる」と言いながら、その翼で顔を覆っていたとあります。神の聖臨在を畏れたからです。ケルビムもまた、神の聖なる臨在を畏れたのでしょうか。いや、そういうことではないでしょう。

ここではむしろ、ケルビムが「宥めの蓋の方を向くようにする」ことが強調されています。ここが肝心です。彼らは宥めの蓋をじっと見つめているのです。宥めの蓋に注がれる犠牲の血が正しいものであるかどうかを監視しているのです。レビ記16章14-16節にこうあります。

「それから、雄牛の血を取り、指で『宥めの蓋』の東側に振りまき、また、指で七度その血を『宥めの蓋』の前に振りまく。アロンは民のために、罪のきよめのささげ物である雄やぎを屠り、その血を垂れ幕の内側に持って入り、この血を、先の雄牛の血にしたように、『宥めの蓋』の上と『宥めの蓋』の前にかける。彼はイスラエルの子らの汚れと背き、すなわちそのすべての罪を除いて、聖所のための宥めを行う。」(レビ16:14-16)

 正しい血が、宥めの蓋にかけられているかどうか、ケルビムという天使は見張っているのです。聖なる神に近づこうとする者は、罪を償うにふさわしい犠牲をささげ血を流さなければなりません。それを監視するのがケルビムの役割です。そのことを象徴するために、宥めのふた(カポーレット)をじっと見つめているのです。

 

3.キリストの代償的贖罪

 

ケルビムが見つめている宥めの蓋カポーレットは、ギリシャ語訳聖書ではヒラステーリオンと訳されることになりました。そして、もともと宥めの蓋を意味したヒラステーリオンは、宥めのささげ物そのものを意味することにもなりました。新約聖書では、ヘブル書9章5節と、そして、ローマ書3章25節に出て来ます。「ヒラステーリオン」といっても、ローマ書では「宥めの蓋」ではなく、文脈上主イエスの犠牲そのものを指しているので、「宥めのささげ物」と訳されています。

25,神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。(ローマ3: 25)

 ケルビムは、聖なる神の怒りをなだめるために、神の御子キリストがゴルゴタの丘で流される血潮をじっと見つめていました。いわばゴルゴタの丘が、宥めの蓋カポーレットでした。そして、十字架で流された御子の血潮は、神の聖なる怒りを宥め、私たちの罪の償いとなったのです。

だからこそ、私たちは罪ある者でありながら、その罪をゆるされて、いのちの木への道を進んで、神とのまじわりへと招かれることができるのです。キリストの聖なる血潮が、私たちの罪の代償となって、神の怒りを宥めたからこそ、私たちは神と交わり、永遠のいのちを享受することができます。代償的贖罪の真理です。

 

 ところが、16世紀の反三位一体論者ソッツィーニ主義者は、キリストの代償的贖罪の教理を嫌悪し、天の父が、罪人の代わりに御子を罰したという教理は、「不道徳、支離滅裂、非理性的そして不可能である」と罵倒しました。また18,19世紀の自由主義神学の父シュライエルマッハー以降の自由主義神学性善説に立ち、キリストが山上の説教で説かれた愛の道徳にみなが倣えば地上に神の国を来らせることができると教え、神は、私たちの罪を赦すにあたって、犠牲など求めず、ただ悔い改める者たちを赦すのだと今日も教えています。

 『殉教と殉国と信仰と』という、高橋哲哉東大教授と森一弘司教の対談があります。高橋哲哉国家主義愛国心における殉国精神に警戒感を持つ人です。対談の相手の森一弘神父ローマ・カトリックの司教であり、著名な新約聖書学者です。

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高橋:・・・キリスト教で殉教が語られるときに、イエスが十字架上で刑死したこと、これを「犠牲死」ととらえるのかどうかが問題になるのではないでしょうか。・・・しかし、このイエスの死を犠牲死ととらえる見方そのものについて、キリスト教思想の中でも議論はあったと思いますが、もっときちんと検討しなおす必要があるのではないでしょうか。
森神父・・・結局、キリストの十字架を生贄とか犠牲としてとらえると、神理解が色々歪んできてしまうんです。
高橋:やはり、そう思われますか。
森:キリストの十字架を「犠牲」というかたちで説明するのは、先ほど申し上げた正義、交換の正義と言う視点が、聖アンセルムス(1033-1109)とか トマス・アクィナス(1225-1274)あたりで神学の中にどんと入ってきてしまった論理です。それがのちに主流になって今日まできてしまった。
 ところが、キリストの十字架を「犠牲」としてとらえてしまうと、神の姿が歪んできてしまう。それは現代の神学者たちも指摘しているところです。・・・ちなみに、福音書をずっと読んでみても、福音書の中にキリストの十字架を「犠牲」とする、あるいは罪のあがないとするような言葉は全く出てきません。ですから、そういう意味で、現代はもう一度、真正面から神理解、そしてキリスト教の教義理解に取り組まなければならないと思っております。(以上、98-99ページ)

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 森神父の主張は、明白な虚偽です。キリストの十字架の犠牲死は、創世記第三章の神が手ずから用意された皮衣に始まり、キリストの生涯において成就した贖罪のわざです。福音書おいてイエスは言われました。

マルコ10:45 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

マタイ26:28「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」

 悪魔は、今日の日本でも、良心的と評判の東大教授や著名な聖書学者をも用いて、「十字架のことば」、すなわち、キリストの代償的贖罪という真理を覆い隠すのに躍起となっています。

 

結び

 蛇の誘惑によって、人は神ぬきに、自分で善悪を決定できる人生こそ誇り高い人生だと思い込むようになりました。しかし、神を人生の王座から追い出した自己中心こそ、あらゆる罪の根であり、傲慢と言う罪の本質です。

 しかし、神は、そういうみじめで傲慢な私たち人間をお見捨てになりませんでした。旧約時代は、神の臨在の前で、宥めの蓋に注がれた犠牲の血は、後の日に人類の罪を償うメシヤの到来を告げるものでした。時満ちて、二千年前、ついに神の御子は人となって来られました。キリストは、神と人との唯一の仲保者として、あのゴルゴタの丘でご自分を犠牲として神にささげることによって、私たちに、いのちへの道を開いてくださったのです。

私たちはサタンと時代の流行に、欺かれてはなりません。どこまでも聖書啓示に根差す、神の王国の前衛に立つ説教者として、キリストの十字架のことばを叫ぶ者でありましょう。

牧田吉和先生「神の国の前衛としての説教と説教者」

 牧田吉和先生を迎えての北海道聖書学院特別公開講座、『神の国の前衛としての説教と説教者』の一日目、午前中、先生の情熱に満ちた講義に、みなさんきわめて熱心に耳を傾けて聴いていました。
 内容は、創造から終末の栄光の完成に向かって展開される神の王国の歴史。都会であれ田舎であれ、大きな群れであれ小さな群れにおいてであれ、主日ごとの礼拝において、キリストの言葉が説教され聖餐が行われる、そこに王なるキリストの現臨があり、したがって、神の王国の現れがある。したがって、説教と説教者は、まさに、前進してゆく神の王国の再前衛である。
 たいへん励まされました。
 
 昼食後、先生が対話の時を設けてくださったら、さらに4時ころまで神学生たちが、先生にいろいろ質問をしていました。お疲れにならないかと、少々ハラハラしましたが、お元気です。毎日1時間宿毛を歩いていらっしゃるからでしょうね。
 
 教師会は先生と夕食をご一緒させていただき、楽しい牧会と神学の歓談でした。当然、わたしは赤い鼻笛を演奏しました。讃美歌121番、馬舟の中に。

若い同労者の結婚のお祝いに

 

  今日は嬉しい日でした。この春に北海道のある町の教会に赴任した若い同労者が10月末に結婚をされ、今日はお祝いの会がその教会堂で行われたのでうかがってきました。新郎新婦ともに牧師の家庭に祈られて育った人で、結婚への導きについても祈りの中でたしかなものとされていったことについて、お話とムービーであかししてくださいました。考え方、祈りは、とても聖書的・伝統的でありながら、自由自在にIT機材を使ってのびのびとご自分たちを表現しているところは現代的で、ほんとにすごいなあと感心しました。

 筆者は新郎とは、二年前に千葉にある神学大学の夏期インターンとして苫小牧福音教会に来られたときに交わりがあり、また、春からはZOOMを使った神学読書会もいっしょにしています。また、新郎・新婦の父上とは親しい交わりがあります。そんなわけで、祝辞を依頼されたので、「鼻笛も吹いてあげよう」と二つ返事でお祝いのことばを述べてきました。ここに紹介しておきます。

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Kさん、Yさん、ご結婚おめでとうございます。お祝いに、讃美歌ではないのですが、まず鼻笛演奏をさせていただきます。中島みゆきさんの「糸」という歌です。

<演奏>

なぜめぐり逢うのかを 私たちは何もしらない

いつめぐり逢うのかを 私たちはいつもしらない

どこにいたの 生きてきたの

遠い空の下 ふたつの物語

縦の糸は あなた 横の糸はわたし

織りなす布は いつか誰かを あたためうるかもしれない

(中略)

縦の糸はK 横の糸はY

ふたつの糸が 出会えることを 人は仕合せと呼びます

  「糸」という歌は国民的歌謡なのだそうですが、私が知ったのは今年一月のことです。この歌を聞いて、胸を打たれました。それは、一つには「遠い空の下」に育った二人の出会いは、まさに神の摂理であることを思わせる冒頭の部分ですが、それ以上に、さびの部分「(二つの糸が)織りなす布はいつか誰かを暖めうるかもしれない」二節では「ほかの誰かの傷をおおうかもしれない」というところです。

 中世の修道士サン・ヴィクトールのリチャードの『三位一体論』に次のようなくだりがあります。

 「最高善、まったく完全な善である神においては、すべての善性が充満し、完全な形で存在している。そこで、すべての善性が完全に存在しているところでは、真の最高の愛が欠けていることはありえない。・・・しかるに、自己愛を持っている者は、厳密な意味では、愛(caritas)をもっているとはいえない。したがって愛情が愛になるためには、他者へ向かっていなければならない。それで位格(persona)が二つ以上存在しなければ、愛は決して存在することができない。

 もしだれかが自分の主要な喜びに他の者もあずかることを喜ばなければ、その人の愛はまだ完全ではない。したがって愛に第三者が参与することを許さないことは、ひどい弱さのしるしである。もしそれを許すことが優れたことであれば、それを喜んで受け入れることはいっそう優れたことである。最も優れたことは、その参与者を望んで求めることである。最初に述べたことは偉大なことである。第二に述べたことはいっそう偉大なことである。第三に述べたことは最も偉大なことである。したがって最高のかたに最も偉大なことを帰そう。最高の方に最もよいことを帰そう。」

  そうして、リチャードはこの父と子の「相互の愛」は、「共通の愛」として聖霊に向かっているといいます。それが、父と子と聖霊の三位一体なのです。

 要約してみます。真の愛は、自己愛でなく、他者へ注がれる愛です。だから、唯一の神は孤独な存在でなく、父と子の相互の愛のまじわりの存在です。しかも、父と子の相互の愛は最も偉大な愛ですから、「共通の愛」として第三者である聖霊に向かうのです。さらに、この聖三位一体の愛は閉ざされたものでなく、私たちをその交わりに招いていらっしゃるのです。

 私が小学生のころ、佐良直美さんの「世界は二人のために」というのがヒットしました。「愛、あなたと二人、花、あなたと二人・・・二人のため世界はあるの」という歌は、舞い上がった恋人たちの心情を歌ったものでした。しかし、「糸」の歌詞に胸打たれるのは、その愛が二人の間だけで燃えているだけでなく、二人を結ぶ愛が「共通の愛」として、「他の誰かを暖め」、また「他の誰かの傷を覆うかもしれない」とあるからです。神は私たち人間をご自分のかたちにおいて創造されましたが、その「神のかたち」とは男と女の関係を意味するのだと、ある神学者は解釈しました。だとするならば、夫婦の愛の在り方は、三位一体の神の愛のかたちを目指して聖化されていくべきものです。

 主が出会わせてくださったお二人の「相互の愛」が、さらに開かれた「共通の愛」として、主にあるK教会の兄弟姉妹に注がれ、また、まだ柵の外にいる滅びゆく魂を、神の交わりに招く愛となるように、と祈ります。

 

 

中古スタッドレスをヤフオクで選ぶ条件

 雪国ではスタッドレス・タイヤは必須だが、大きなタイヤだと結構な出費になる。昨年初めて、今年は二回目ヤフオクで中古を手に入れてみて、ポイントがわかったので、備忘録としてここに置いておく。

 スタッドレスの安全の条件は、ヒビや傷がないことは前提として、二つある。一つは、溝が深いことであり、もう一つは、柔らかいことである。溝が浅いとハイドロプレーニング現象が起きる。しかし、溝が深くても固くなっていると滑ってしまう。ゴムは経年劣化で、(保存状態にもよるが)固くなる。そこで、溝が深く(ヤフオク用語で「バリ山」という)、ゴムが柔らかい、新品が理想である。

<柔らかさについて>

 ゴムが硬化する速度のは、メーカーによってちがう。やわらかさが長持ちすることで定評があるのはブリジストンのブリザックである。また台湾のナンカンも柔らかいが、経験者に聞くと腰がないそうだ。ゴムの硬さに関していえば、ブリザックは5シーズンが限度というが、室内保存しているともっと長持ちする。 タイヤの製造年月については、タイヤの横の楕円形のワクのなかにへこんだ文字でしるされている。下4桁(例2412)の数字が製造年週を示しています。 最初の数字24は24週目を、最後の数字12は2012年を示す。 ヤフオクではタイヤの古さを表示していない出品者がいるが、そういうのには手を出さない方が無難である。

<溝の深さ>

 スタッドレスの溝の深さは、タイヤの使用頻度による。しかし、ここが注意点だが、2017年のタイヤと2015年のタイヤであっても、2017年のタイヤの方が溝が浅いことがある。当たり前のことだが、年間1万キロしか走らない人と、年間5万キロ走る人がいるからである。溝の深さ、減り方のバランスは、写真をじっと観察する。

 そこで、ヤフオクで中古スタッドレスを手に入れる場合、サイズが正しいことを前提として、古さについてはブリジストンで5年以内で、溝が深いものを選ぶということになる。溝が深いことをヤフオクでは「バリ山」と表現している。

<サイズ>

 タイヤのサイズについては、タイヤの横に、たとえば、195/65R15とある。 ネット上に詳しい説明があるから参照すること。これを間違えると付けられない。

PCD>

 もう一つの注意点はホイール付きのタイヤを買う場合である。ホイールの穴の位置が車によってちがう。それはPCDという数字で表現されている。同じタイヤのサイズでも、これがちがっていると付けることができない。

<送料>

 さらに、もう一つの注意点は、送料である。遠距離の出品で送料無料でないと、タイヤは大きく重いので、送料が馬鹿にならない。

 以上のようなわけで、もしヤフオクスタッドレスを手に入れたいならば、「ブリジストン」「バリ山」「製造年」「送料」、そしてホイール付きならPCDに注意することである。(インチアップといって、大きなホイールをつけるために、タイヤの内側を切っているものがあるが、そういうのはまず出品されていない。)