苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

車がない

 今朝は公園の南の住宅街に車で行き、空き地のわきに停めて、『通信』散歩しました。1ブロック目を歩いていたら、なんだか車を止めたあたりから拡声器で叫ぶ声がしています。「なんだろうなあー」と思いながら、2ブロック、3ブロック・・・と6ブロック回ったら、7時になったので、車のところに戻ってみると、ありません。車が無い。えー!こんな早朝にレッカー?!
・・・と思ったら、ありました。停車した所を勘違いしてました。あーよかった。

偽預言者を見分ける方法

 主イエスは、世の終わり、再臨の前兆として、偽預言者が現われるから、惑わされないようにと教えられた。「また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。」マタイ24章11節。

 主イエスは、偽預言者を見分ける方法を、山上の説教末尾で教えた。マタイ7章15-24節。

「15**,偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。**
16**,あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。**
17**,良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。**
18**,良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。**
19**,良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。**
20**,こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。**
21**,わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。**
22**,その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』**
23**,しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』**
24**,ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。

 特に注目すべきは、7章22節にあるとおり、偽預言者は、主イエスの名によって預言をし、主イエスの名によって悪霊を追い出し、主イエスの名によって多くの奇跡をしきりに行い、かつ、そうしたイエスの名によって行った預言や奇跡が自分が救われるべき根拠であると、しきりに、主に訴えているということである。イエスの名によってさまざまな不思議を行うのだから、本物だと思ってはいけない。むしろ、偽預言者は、預言や奇跡や悪霊追い出しで自己宣伝するのが特徴であるから、本物かどうかを判別する必要がある。

  偽預言者か、本物の預言者か、という識別のしるしは、エスの名によって行われる奇跡的なわざでなく、「良い実」を結んでいるか、「悪い実」を結んでいるかということだと主イエスは教えた。「良い実」とは、主イエスがここまで山上の説教で教えられたような清く、愛に満ちた誠実な生き方を実践していることである。言い換えれば、それは主イエスに似た品性であり、パウロの表現でいえば、御霊の実である。ガラテヤ5章22,23節「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」である。
  他方、偽預言者の「悪い実」とはキリスト的品性と逆である。ガラテヤ5章19-21節「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。」 現代のキリスト教世界においても、偽預言者たちが現われて、信徒たちを惑わしている。インターネットという手段を得て、彼らは容易に教会の中に入り込んでくる。もし、その自称預言者自身が「肉の行い」をしていたら、彼は偽ものである。また、自称預言者の影響を受けた信徒が、肉の行いのリストにあるようなことを行ない、敵意、争い、分裂、分派を引き起こしていたら、自称預言者は偽ものであることがわかる。

血圧が下がりました。

 3週間くらい前、早朝、頭がボワーッとしたので血圧を調べたら、上が135、下が90であり、50歳ころ上100程度だった自分としては高血圧になっていました。
 その後、娘の勧めにしたがって無塩トマトジュースを毎日200㎖、S兄の勧めにしたがって玉ねぎたっぷりの塩分少量・出汁濃い味噌汁を毎日一杯1杯、納豆は出汁醤油にして過ごしたら、上117に、下は67に下がりました。  無塩トマトジュースと、玉ねぎは、やはり効くようです。

かくありたい

 若い頃、『旅人』という湯川秀樹の若き日の自伝を読んで以来、この人物に関心がある。下の文章を見つけたので、ここに置いておく。

 

森毅は、晩年の湯川秀樹の人柄をしのばせるエピソードをいくつか紹介している。
 
 最初のは森敦が森毅に教えてた話。
 
 おそらく少人数を前にしての講義だったのだろう。
 よくできる学生が、湯川が黒板で展開する数式に誤りを見つけた。
 それを指摘すると、湯川はうーんとうなり、しばらく考えたが何ともすることができず、立ち往生してしまった。
 それから「ちょっと待っとき」と言って、ぷいと教室を出た湯川は、しばらくすると岡潔(数学者)を連れて教室に戻ってきた。
 「これなんやけど」
と湯川は岡に黒板の数式を示し、岡はすぐに
「ああ、湯川せんせ、ここが違いますわ。こうやなくて、こうでしょ」
と数式を直した。
 湯川はしばらくそれを見つめて考えていたが、
「ああ、そうか。なるほどなあ。みんなも分かったか? 授業つづけるで。あ、岡君、ありがとうな」
ということが一度や二度ではなく結構あったのだそうだ。
 呼ばれてやってくる岡も岡だが、呼びにいく湯川も湯川である。

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分配なくして成長なし(2)

昨日の、「分配なくして成長なし」に関連して、2014年4月5日の記事を再掲載しておく。

 ひさしぶりに文藝春秋2月号を読んだら、新自由主義経済の破綻について記されていた。
 市場原理主義に立つ新自由主義経済は、格差はひろがるが、経済活動は計画経済とちがって競争が働くから活性化するのだというのが売り物だった。だが、実際の数字を見てみると、市場原理主義が導入された結果、格差が急速に拡大すると同時に、経済活動も不活発になって経済成長率が衰えていることがわかった。
 理由は単純である。新自由主義によって、経済競争があまりにも激しくなったために、各企業はとにかく生き残るために、目先の利益のみを追い求めるほかなくなってしまった。その結果、長期的な見通しをもって設備投資をしたり、長期的見通しをもって人材育成をしたりということができなくなったので、中長期には企業の開発力も生産力も衰えてしまったからである。
 もうひとつ理由がある。格差拡大政策によって作り出された大多数の貧乏な人々は購買力がないからである。これでは経済が落ち込むのは当然である。日本は外需は10数%に過ぎず、内需が80数%なのだ。大多数の庶民を貧しくなるままにしておけば、経済が回らなくなるのは理の当然である。
 読んでみると、こんな結果になることなど、少し考えればわかりそうなものだと思うのだが、なんともお粗末は話だ。
 「市場原理」というのはその道の経済学者の世界では、疑うべからざるドグマになっていて、もしこれに疑いを表明すれば経済学の世界で相手にされなくなってしまうという状況なのだそうである。だから、学者たちはこれを批判する論文を発表することができないという。およそ学問的ではない状況だが、こういうことはありがちなことである。日本の原子力学会で原発は危険だとか表明すると居場所がなくなったのと同じである。


 旧約聖書に見える「安息の年」や「ヨベルの年」が意味することは、自由な経済活動を認めているが、無限の自由を認めるわけではなく、一定の制限下における自由な経済活動を認めているということである。
 経済活動をまったく無規制で放置すれば、富者はますます富み、貧者はますます貧しくなる。弱肉強食である。だが、弱肉強食がひどくなると、弱者がやせ細りすぎて、強者も栄養不良になってしまう。弱肉強食状態が極端になると、中長期を見とおした経営ができず、消費者の購買力が落ち込むので経済活動は不活発になる。現在の日本である。他方、経済活動を完全に国家の統制の下に置けば、平等な社会を来たらせることができようが、経済活動が活性化する道理がない。また、経済活動を完全に国家の統制の下に置く、強力な警察力を握る政府が特権階級化してしまう。ベルリンの壁崩壊直前のソ連と東欧諸国のように。
 そこで、肝心なことは、自由と平等を両立させるためにバランスをとることである。そのためには、適度な規制のもとにおいて自由な経済活動を認めることである。市場原理主義も計画至上主義もまちがいである。なんであれ、「主義」というのは中毒であり偶像崇拝であって、まちがいのもとなのだ。

「新しい資本主義を実現する。分配なくして成長はない。」

 岸田首相は、小泉―安倍―菅と続いた新自由主義経済に決別し、「新しい資本主義を実現する。分配なくして成長はない。」と主張している。

 小泉ー安倍は、竹中に操られて、ひたすら富裕層を富ませる政策をとり続けた結果、この経済大国でありながら食べていけない子供たちが路頭を迷う恥ずべき社会を作り出した。ほんの少し前、一億層中産階級と言われた日本社会は中間層がやせ細ってしまい、高級外車を乗り回す一握りの富裕層と、中古の軽自動車に乗って百円ショップとリサイクルショップと子ども食堂でなんとかしのいでいる大多数の庶民とに分断された。

 では、日本経済はそれで全体として元気になったのかといえば、そんなことはない。日本の外需のGDPに対する割合はわずか10数%にすぎない。日本経済は圧倒的に内需に頼っているいるのであるから、大多数を占める庶民を富ませ購買力を増さなければ経済が成長する道理がないのである。大企業はタックスヘイブンに空前の内部留保し続けて税金を払って社会に還元せず、かつ、消費が冷え込んでいるので積極的な設備投資もしないから、技術開発も遅れに遅れ、日本経済は全体としては疲弊の一途をたどってきた。 

 こんな状況にあって、岸田首相が「分配なくして成長なし」と主張するのは理にかなっている。

 聖書は経済運営に関しては、ほどほどの自由とほどほどの平等という原則をヨベルの年の定めをもって教えている。

 

こちらも参照してください。

koumichristchurch.hatenablog.jp

 

koumichristchurch.hatenablog.jp