苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

林俊宏牧師召天

 林俊宏先生召天。あまりに突然の報せでした。一昨日、ご長女から報せをきいて思い浮かんだのは、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5:24)というみことばでした。といっても、今も全然実感がわかないのです。ただ、自分も伝道者として、今夜、主の前にに取り上げられてもよいような生き方をしなければ、と思います。
 林先生は破格に面倒見のよい方だったから、「ぼくこそ、林先生に一番お世話になった」と思っている後輩が多いのでしょうが、私もその一人です。
 先生が基督神学校を卒業したのと入れ替わりに私は入学し、卒業後は、私は練馬の中で光が丘と大泉というとなりで働きました。リソグラフをたびたび借りにうかがいましたね。パソコンで分からないことがあるたびに電話して、それでも、めんどくさがらずに丁寧に教えてくださいましたね。
 長男が幼稚園のころ、おうちにうかがってお子さんたちと大騒ぎしたこともありました。その幼稚園児が大学生になったときにも、何かとお世話になりました。中学時代から病身だった娘は、あの頃から今日にいたるまで、ご長女からの変わることのない友情に支えられて、今は元気に働いています。
 教団では、先生が教育部長で、同期の遠藤嘉信先生や丸山園子先生と私が一緒だったころ、教育部は毎回面白すぎて腹が痛くなるほど笑って、苦しくて、隣の部屋に静まりに行くというようなこともよくありました。遠藤君と今ごろ一緒ですねえ。小畑先生や朝岡先生ご夫妻や吉持先生や宮村先生や、もうずいぶんにぎやかになりましたねえ。すこしうらやましくも感じます。いつかまた、こちらの用事が終わって、主が「もういいよ」と言ってくださったら、私もまいります。

いつの日にか

 今日も子どもたちが来ました。男の子が4人、女の子が8人。今日の紙芝居はアダムとエバのおはなし。なぜかまじめに聴いていました。身につまされることがあるみたいです。
 そのあとは、鬼ごっことかかくれんぼとか、わけわからん大騒ぎをしてました。せんせー、のどかわいた。おなかすいた。なになにちゃんが仲間外れにした。
 ぼくもあんなんだったかなあ。もっと理性的だったか。いや、やっぱりあんなんだったか。
・・・・困るのは、週半ばにしてくれたお掃除の成果がなくなることかな。
 でも、いつか人生に迷った日、教会に行ってみようかな、牧師さんに会ってみようかなと思う日が来てくれることを願っています。

 ちなみに、こんな約束をしてもらいます。

 

    子どもの約束

1 かみしばいをちゃんと見る

2 お水・お茶をちゃんとのむ

3 ドラムをさわらない(こわれた)

4 なかまはずれにしない

 

午後2時から4時15分

子ども襲来

コロナがなかった年は、毎夏、教会で夏祭りをして、会堂が子供がにぎやかだったのですが、コロナで大っぴらに密の集会ができなくなりました。
 昨日、会堂のまえでちょっとした工作をしていたら、学校帰りの小学生が、「何してるの?」というので、子どもトラクト上げるよと言うと、一度家に帰ってから、といいます。で、待っていましたが、ほかに4人の子どもも一緒にやって来ました。
 あとは、もうにぎやかで、台風襲来という感じでした。たった5人であのエネルギーって、どうなっているんでしょうね。ドラムの太鼓をドンドン踏みすぎて、とうとうこわしました。
 「あしたも来るよ」と言っていましたから、まもなく来るのでしょうか。嬉しいような、恐ろしいような。紙芝居の用意をして待ってます。

説教卓のアクリル・パーテーション

HBIサンデーでほかの教会でお話しする機会が多いのですが、結構、アクリル板のパーテーションなどが設置されておらず、マスクをしたまま説教をしている教会があるのですね。
 わたし自身は、もともと聞こえにく「通らない」ハスキーな声なので、マスクをしたらほんとに聞こえなくなってしまいます。それにマスクしたまま話を30分、40分というのは、具合が悪くなってしまいます。それで、アクリル板とそれを立てる道具を持参しての働きということになります。説教卓にいろんな形状のものがあるので、立て方の工夫も必要です。
 みなさんの教会では牧師はマスクで説教しているのでしょうか?よくなさるなあと感心するとともに、私の率直な思いとしては、教会にとって、特にプロテスタント教会にとっては、神のことばの説き明かしである説教は礼拝のいのちですから、教会は牧師がまともに説教できるためのサポートを惜しまないでいただきたいということです。

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恵庭の教会の帰りにシャケ焼き

 昨日は、恵庭の教会にHBIサンデーの働きで出かけてきました。恵庭という駅で降りるのは初めてです。駅から、5分ほどのところに会堂がありました。電車の関係で、かなり早く到着したので、近所を散歩してみました。住宅街だなあという印象でした。札幌のベッドタウンなのでしょうね。車の数も人通りも少なく、公園は私ひとりでした。道路の中央分離帯の花畑と立木が美しかった。

 教会で、「恵庭とはどういう町ですか?」と聞いてみたら、「恵庭の売りは、読書の町、鼻の町ということです。」と言われました。なんでも、北海道で最初にすべての小学校に図書館司書を置いたということで、全国放送でも紹介されたそうです。図書館に司書を置くというのは、交番にお巡りさんがおり、駅に駅員さんがいて、病院に医者がいるのと同じくらいあたりまえのことだと思いますが、日本では図書館に司書を置くことが当たり前ではないのだなあと思いました。目先の金儲けには金をかけても、長期的に見て最も重要な教育行政にはほんとにお金を賭けませんからね、この国は。もともとそうですが、特に前政権あたりからひどくなりました。

 花の町というのは、今の恵庭の市長さんが力を入れていることだそうで、広々とした中央分離帯の木陰と花畑、花畑の公園、そして、一般の住宅街もお花をきれいにすることが奨められているそうです。教会周辺の家々は、苫小牧に比べて、みな新しいなという印象でした。苫小牧には、かつて使っていた集合煙突が残っている家がけっこう見かけられますが、恵庭の家々にはほとんど見かけませんから。

 恵庭の教会はJECA(日本福音主義基督教会連合)の群れで、姜先生という女性の牧師が牧会していらっしゃいました。明るく元気でフレンドリーで、しっかりとした牧会をされているという印象を受けました。また、みことばによく親しんでいる兄弟姉妹たちだなあという印象を受けたことです。中高生会がなされているのも、実に素晴らしいと思いました。

 帰りに恵庭の駅前の「シャケ焼き本舗」という小さなお店でシャケ焼きを食べました。「シャケ焼き」というのでシャケ弁当を売っているのかと思ったら、まったく違いました。「たい焼き」でなく、「シャケ焼き」ですよという意味なのです。シャケのかたちをしたたい焼きみたいなものです。でも、たい焼きの生地のように重くなくて、軽くてパクパク食べることができます。普通にあんこが入ったのもありますが、昼食代わりなので、カレー入りと、ピリ辛入りと、レモンあんこの三つにしました。これがとてもおいしかったです。かつては北海道で何軒かあったそうですが、今では、シャケ焼きが食べられるのは、この恵庭の駅前だけなのだそうです。焼きたてが特に美味しかったですが、あまりに美味しいので、家内にお土産に三つ買って帰りました。

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聖書啓示が具体性を伴うわけ

ソクラテスは『パイドン』の中で「哲学は死ぬことの練習である」と言います。「哲学などする人は自殺したくなるんじゃない?」と言う人がいますが、ソクラテスが言おうとしているのは、そういうことではありません。
 ギリシャ的な死生観によれば、死とは魂が肉体から分離することです。それは、人間において時間的・空間的制約ある肉体から魂が分離して、そうした制約を受けない永遠的・超空間的な境地に入るということを意味しています。
 ひるがえって、哲学とは、時空の制約を受けた肉体的・現象世界の事象から離れて、「善」とか「正義」とかいうような時空の制約を受けないイデアを見出そうとすることです。というわけで、哲学は死ぬことの練習だというわけです。おもしろいことを考えますね。やっぱり哲学者というのは、ちょっと変わっています。
 しかし、私たちの生は、時間と空間の中でこのからだをもって営まれているわけですから、それらを捨象した哲学の作業というのは、どうしたって生を失ったものになってしまいます。
 そこに聖書の啓示は、抽象的議論でなく、具体的なある時代のある地域に生まれて死んだアブラハムという名の特定の人、彼から生れ出た具体的な一つの民族を通して、なされたということの意味が見えてくるように思います。生ける人格である神が、生きている私たちに語り掛けられるにあたっては、そういう具体性をともなう方法がふさわしいということです。

主の山に備えあり?

アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。(創世記22:14)

 アブラハムがモリヤの山で愛するひとり子イサクをささげた場面である。「主の山には備えがある」と訳されたのは、「ベハル・アドナイ・イルエ」という有名なフレーズである。だが、「ベハル(山で)・アドナイ(主は)・イルエ」の「イルエ」は「ラアー」つまり「見る」のニファル形・未完了・3人称単数だから、普通に訳せば「主は山で見られる」である。なぜ「主の山に備えあり」と訳したのだろう。アブラハムがひとり子をささげようとしたら、そこにお羊が備えられていたから、その文脈からこんなふうに訳したことはわかるのだが、訳しすぎではないか。「主は山で見られる」と普通に訳せば、主は山で大事な啓示をお与えになるという意味になり、ホレブ山で律法が与えられ、ガリラヤの山上で説教がなされ、大宣教命令も高い山でされたことが思い起こされる。

 今朝、この箇所を読んで、その昔、清水武夫先生が指摘なさるのを聞いたことを思い出したのでメモした次第。むしろ「主は山で現れる」という意味ではないか、と教えてくださった。その清水先生が、この秋、HBIに特講で来てくださることになっている。楽しみ。