苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

春の子ども会

 きょうは午前中、春の子ども会をしました。幼児・小学生が男女15人、付き添いのお母さん2人、教会の奉仕者13人でした。
 久々にT兄の張り切りの司会でした。H兄はゲーム発明の天才で、面白かったです。私はゲームでギンビスのアスパラ、じゃがりこ、そしてナントカビスケットの袋を3つゲットしました。
 幼児に付き添ってきてくださったお母さんは、子どものころにこの教会の子ども会が楽しかった記憶があるのだそうで、楽しんでいらっしゃいました。

 お話担当は私で、「神様は、君を知っている」という詩篇139篇に基づくお話をしました。

無機的な学校風景

 今朝も苫小牧の東の方を歩いていると、広々とした校庭のある小学校がありました。北海道だから十分な面積がとれていることはいいことですが、校庭には木が一本も生えておらず、かつ塀というものが存在しません。だだっ広い校庭の周囲を等間隔にコンクリートの柱が囲んで立っていて、その間をフェンスというかネットが張られているのです。

 その意図していることは、人が隠れることができる物陰を作らないということでしょう。他府県で不審者が学校に入り込んで事件を起こすということが何度かあり、それが大々的に報道されたことを受けて、学校を改修する機会に、校舎と地面以外なにもないという無機的な学校風景にしてしまったのです。高い塀がない点を除いて、まるで刑務所のような風景です。

 我が家の子どもたちが小学生だったころ時代、つまり二十年ほど前には、学校ではニワトリとウサギを飼っていて、校庭の周りを木々が囲んでいたものです。子どもたちは餌やり当番や水やり当番などをしていました。そういうことが子どもたちの情操を養う上で大事なことだという認識があるからでしょう。しかし、鳥インフルエンザが流行したために、学校から動物も排除されました。木も生えていない、花壇もない、鳥もウサギもいない校庭、そしてコンクリートで出来た建物の中で、子どもたちは健やかに育っていけるのだろうか、といささか心配になります。

 事件が起きたら責任を問われる。だから事件を未然に防ぐために取った対策なのだろうとは思うものの、なんというか、大事なものを置き去りにしてしまっているのじゃないかなあと感じます。

人が神のかたちである御子をモデルとして人を造られた目的

1 人間創造のモデル

 使徒パウロがコイネーギリシャ語で記した手紙の中で引用する旧約聖書の多くは、彼が親しんでいた70人訳ギリシャ語聖書からである。コロサイ書1章15節に次のようにある。

「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」(口語訳)

 このギリシャ語本文は次のとおりである。
ὅς ἐστιν εἰκὼν τοῦ θεοῦ τοῦ ἀοράτου, πρωτότοκος πάσης κτίσεως,

「神のかたち」はεἰκὼν τοῦ θεοῦである。旧約聖書に親しんできたパウロが、万物の創造について述べる文脈の中で「神のかたち(εἰκὼν τοῦ θεοῦ)」という表現を用いた時、また70人訳聖書が普及していたヘレニズム世界の教会の読者が、当然思い出した70人訳旧約聖書の箇所はどこだろうか?言うまでもなく、創世記1章26、27節であろう。そこには、下のように書かれている。27節
καὶ ἐποίησεν ὁ θεὸς τὸν ἄνθρωπον, κατ᾽ εἰκόνα θεοῦ ἐποίησεν αὐτόν· ἄρσεν καὶ θῆλυ ἐποίησεν αὐτούς. 
 直訳すれば、「神は人を造られた。神のかたちにしたがって彼を造り、男と女とに彼らを造られた。」となる。この箇所を受けて、使徒パウロは、「御子は見えない神のかたち」であると言っていると解される。つまり、「創世記1章で、神が、人間創造のモデルすなわち『神のかたち』としたのは御子なのだ」と注釈しているのであると解される。創世記の記者は、そのように意図して書いたとは思えないけれども、そのように書かしめた聖霊の意図が、パウロのときにようやく開示されたということになる。

 

2 「神のかたち」の意味

 「御子は見えない神のかたちである」ということの意味は、有限な被造物にすぎない私たちには見ることのできない神を見えるようにしてくださる神の「写し」という意味である。父なる神の「写し」である御子であり、私たちは御子によって父なる神を見ることができる。これはヨハネ福音書1章とへブル書1章に表現される思想と同じである。

神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」ヨハネ1:18

御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。」へブル1:3

 その御子に似た者として、人間は造られたのである。

 

3 目的

 では何のために、神は創造するにあたって御子をモデルとなさったのだろうか。へブル書1章2節には「神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。」とある。神のこの万物創造の目的は、御子に万物を相続させることである。そして、神の民を御子の共同相続人して万物を御子と共に相続させて神の王国を完成させることである。

「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。」(ローマ8:17)

 神が人を御子のかたちとして造られたのは、人に御子とともに世界を相続させて神の王国を完成させるためである。そのありさまは、黙示録22章に黙示的表現で記されている。
「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。(黙示22:1‐同22:5)」

地球は水の惑星

出典 https://www.koukaitenmondai.jp/akatsukikun/aboutvenus.html

 このところ、原則として隔週で創世記を説き明かしている。先日は創世記7章のノアの大洪水の記事のお話をした。私は無神論者の高校生のころ、ノアの大洪水などあるわけがないと決めつけ思考停止して調べようともしなかった。だがクリスチャンになってから大洪水について、どういう研究がなされているのかに関心を持つようになった。

 

1 洪水が覆った範囲

 

 大洪水が覆った範囲については、地域限定説と地球規模説がある。前者はメソポタミア地域限定説と、近年話題となっている黒海のボスフォラス海峡形成(決壊)による地中海東世界地域限定説がある。地域限定説は現代人の常識にかなっているので、リベラルな聖書学者たちの学会でも扱われる。

 だが、創世記には山々の頂まで水で覆われたという記述があり、水が減って来てノアが漂着したのが現状標高5千メートルを超えるアララト山であったという記事がある。

「水はまた、ますます地にみなぎり、天の下の高い山々は皆おおわれた。水はその上、さらに十五キュビトみなぎって、山々は全くおおわれた。」(同7:19,20)

箱舟は七月十七日にアララテの山にとどまった。 水はしだいに減って、十月になり、十月一日に山々の頂が現れた。」(同8:4,5)

 これらの記事を素直に読めば、洪水は地球規模のものであったつまり地球規模説になる。地域限定説の場合は、上の記事を文学的な誇張法として読むほかないだろう。大洪水を地球規模とする説はレオン・モリスをはじめとする「創造科学者」たちによるものである。かつての高校生の私と同じように、リベラルな聖書学者たちは創造科学の地球規模説に、似非科学のレッテルを貼りつけて検討の対象とすることすらしない。だが創世記を普通に読むならば、地球規模の洪水があったことを主張している。

 

2 水はどこから来たのか?

 

 地球規模説のばあい、地表を覆いつくすほどの莫大な水がどこから来たのか、そして大洪水後、どこに行ってしまったのかということが疑問となる。南極大陸の氷がすべて溶けたとしても、水位は数メートルしか上がらないからである。

 地球は「水の惑星」なのだということばを思い出す。上の写真は太陽系の「地球型惑星」である金星、地球、火星である。地球の姿はなんとユニークで、青く美しいことだろう。それは地球は水に満ち満ちているからである。神がまず用意した素材としての原始の地球は水に覆われていた。

「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」(創世記1:2 口語訳)

 そして神はこの水の間に「大空(大気)」を挟み込んで、「大空の上にある水」と「大空の下にある水」とに分けられた。

神はまた言われた、『水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ』。そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。」(同1:6,7)

 当時の地表の状態について、創世記は次のように描写している。

「主なる神が地と天とを造られた時、 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。 」(同2:5,6)

 大洪水前、地下水が豊かであったというのである。「大空の上の水」は地表を温室的な状態に保っていたから南極も温暖であったので、海にはサンゴがあり陸には森林もあった。実際、今日南極でサンゴの化石や石炭層が発見されていることは周知の事実である(一番下のリンク先を参照)。また「上の水」のゆえに地表の気圧は2気圧ほどであって、それが大洪水前の動植物が長寿で巨大であったことと関係するのだという説も唱えられている。

 ところが人間が神に背いて堕落のきわみに達したので、神はこれを大洪水をもって一掃することにされた(同6章)。そして、神は地下の「大いなる淵の源」と大気圏外の「天の窓」を開くことで、地表をさばきの水で満たされた。

それはノアの六百歳の二月十七日であって、その日に大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開けて、 雨は四十日四十夜、地に降り注いだ。(同7:11,12)

 「大いなる淵の源」が猛烈な勢いで噴出した。また、「天の窓」からは「おおぞらの上の水」が降り注いだ。ある学者は、巨大な隕石が地球に衝突し地殻にひびが入って、そのひびから地下の淵の水が猛烈な勢いで噴出して「大空の上の水」に達して急速に冷やしたので、それによって四十日間大雨が降り注いだのではないかと推測している。 大洪水の結果、地球を覆っていた「大空の上の水」はなくなったので、地表の寒暖の差は激しくなり、北極と南極は氷におおわれてしまった。

 

3 大量の水はどこへ行ったのかー地殻変動

 

 他方、「下の水」は40日を過ぎても噴出し続け、150日間に及んだ。「水は百五十日のあいだ地上にみなぎった。」(同7:24)。これほどの大量の地下水があったことからして、「下の水」は今日私たちが見る地殻中の水脈ではないと推察される。学者は「下の水」は地殻の下に閉じ込められていたものであると推測し、それが地表に噴出したのであろうと推測する。「下の水」の噴出によって地球規模の地殻変動・造山活動が起きることになる。大洪水前までなだらかだった地表は、せり上がって山地・山脈を形成し、あるいは陥没して巨大なくぼみとなって、そこに大量の水が流れ込んで海となった。これが昨日書いた詩篇104篇8節が「山が上がり、谷は沈みました」と言っていることである。
 つくづく地球は「水の惑星」である。水はたいへんありがたい賜物であるが、同時に恐るべきものでもある。

 

4 大洪水の証拠

 

 世界を大洪水が覆ったならば、その証拠が地中に大量に発見されるはずである。実際に

(1)岩塩

 岩塩は海水が内陸に閉じ込められて水分が蒸発して、地殻変動によって地下に閉じ込められて形成される。だから岩塩が採掘されるところは、かつて海底にあったことを意味している。ヒマラヤにもアララトにも南米アンデス山脈にも岩塩が存在するのは、これらの5000~8000メートルの山地が海底にあったことを意味している。こうした岩塩は普通にスーパーでもAmazonでも売っている。

(2)石炭層

 世界各地に広大な石炭層が存在する。北米大陸ユーラシア大陸は実に広大なものである。北米の炭田の分布については下のリンク先を参照。炭田の形成については、沼沢地説と海洋説がある。私が高等学校の地学で教わったのは沼沢地説によれば、沼の周辺に生えた木地面に徐々にうずもれていって炭化したものが観察されるが、そのように炭田はできたというのである。だが、この方法では沼の周辺部にわずかに炭化した木ができるだけであって、地平線まで石炭というような炭田は決して形成されることはない。

 海洋説では、大洪水によって森林がすべて根こそぎにされて、海洋に集まって浮島のような状態になり、やがてそれが徐々に沈んで行って海底に石炭層ができたというものである。海洋説の方が、世界の広大な炭田の存在を説明できる。

(3)もろもろの生物の化石の姿

 世界中の水成岩の地層の中から動植物の化石が発掘される。魚の化石の姿は、きれいにひれまで残っているし、ザリガニはひげまできれいに残っているし、カエルは爪の先まできれいに残っている。このような化石は、昔の教科書で教えたように三角州に徐々に埋められて行ったなら決して形成されない。金魚を飼ったこのある人はすぐにわかることだが、動物が死んで池の中に置かれると、他の魚が来て食べ、バクテリアが分解するのですぐにボロボロになってしまう。現在世界中の地層の中で大量に発見される動植物の化石は、かつて大量の土砂と水が一気にその生物を埋めた証拠である。

ザリガニの化石
出典 化石写真集

ザリガニ~化石写真集



 

関連リンク
南極大陸の地下資源」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/tetsutohagane1955/70/6/70_6_498/_pdf

 北米の炭田分布

「炭田や油田の分布」と「造山帯の分布」の関連について|二宮書店

化石

魚類の化石 - Google 検索

カエルの化石

山旺動物群

 

 

詩篇104:8「山は上がり、谷は沈みました」か、「(水は)山を上り谷を下りました」か。

<新改訳第三版>

 5 また地をその基の上に据えられました。地はそれゆえ、とこしえにゆるぎません。

 6 あなたは、深い水を衣のようにして、地をおおわれました。水は、山々の上にとどまっていました。

 7 水は、あなたに叱られて逃げ、あなたの雷の声で急ぎ去りました。

 8 山は上がり、谷は沈みました。あなたが定めたその場所へと。

 9 あなたは境を定め、水がそれを越えないようにされました。
  水が再び地をおおうことのないようにされました。

 

<新改訳2017>

5 あなたは地をその基の上に据えられました。地はとこしえまでも揺るぎません。
6 あなたは大水で衣のように地をおおわれました。水は山々の上にとどまりました。
7 水はあなたに叱られて逃げあなたの雷の声で急ぎ去りました。
8 山を上り谷を下りました。あなたがそれらの基とされた場所へと。
9 あなたは境を定められました。水がそれを越えないように再び地をおおわないように。

 詩篇104篇5-9節はノアの大洪水について描写していると考えられる。9節に「水が再び地をおおうことのないようにされました。」「水がそれを越えないように再び地をおおわないように。」とあるからである。一度、水が地を覆ったのはノアの大洪水の出来事であった。
 8節の翻訳が、第三版から2017訳で変更された。第三版では、大洪水のときに地殻変動が伴い、山が上がり、谷は沈んだという訳である。これに対して、2017訳では、上り下りしたのは山や谷ではなく、水であることに解釈が変更されている。

 ちなみにBibleHubで30種ばかりの英訳の聖書を見ると、水を主語とする訳と、山と谷を主語とする訳の両方があるが、山と谷を主語として地殻変動を指しているとする翻訳の方が多い。邦訳では、文語訳と新共同訳と聖書協会共同訳は水を主語とし、口語訳は山と谷を主語としている。

 「あがる」「のぼる」と訳されるヤアールーは、動詞アーラーのQal未完了三人称複数であり、6節の「水(マイーム)」は複数形であるし、8節の「山(ハリーム)」も複数形であるから、水でも山でも主語でありえる。

 では、用いられる二つの動詞の用法はどうだろう?アーラーという動詞が自然現象を主語として用いられた場合の用法を辞書で調べてみると、夜が明ける、煙が上る、炎が上がるというふうに目的語を取らず自動詞的に使われている。水が何かの上にあふれるという意味の場合にはアルという前置詞を伴っている。つまり、「山を上る」というような用法は他には見られない。
 また「沈みました」「下りました」と訳されるイェルドゥーは、動詞ヤーラードのQal未完了三人称複数であるが、この動詞は水を主語とすると「流れ下る」という意味に用いられていて、やはりどこかに流れ下るという「どこか」を目的語として取る用例はほかに見られない。

 このように「アーラ―」「イェルドゥー」の用法からすると、「水が山を上り谷を下りました」と訳すのには無理があると思われる。むしろ、山と谷を主語として取って、「山は上がり、谷は沈みました」と訳す方が自然な翻訳である。というわけで、詩篇104篇8節の訳は、新改訳第三版の方が適切なのだと私は思う。
 第三版の詩篇104篇8節の訳であれば、ノアの大洪水には地殻変動が伴っていたことがここに表現されている。大洪水の水の出所について、創世記7章11節は「大いなる淵の源」と「天の水門が開かれた」の2つであったと表現している。そもそも、創世記1章2節にあるように、地球は莫大な水に覆われた惑星であった。その水が、「大空」の上と下とに二分され、大空の上の水と大空の下の水に分けられた。陸地が造られた後、大空の下の水は海と地下水となり、創世記2章6節によれば地下水が大地を潤していたとある。大洪水のとき、膨大な地下水が噴出し、かつ天から大量の雨が降って大地を覆った。膨大な地下水が噴き出すと、陥没が起こったり、また造山活動が起こったりしたことを詩篇104篇8節は表現しているのである。

各書は読まれたいように読むべし

 文章というのは、その筆者が「こんなふうに読んで欲しい」と意図したような読み方をするときに、正しい理解と受容をすることができるものである。例えば、一篇の詩は一篇の詩として書かれているのであり、全体としてその流れがあって書かれているのであるから、それを意識をして読むべきであって、やたらと細かく切れ切れに分析して読むべきではない。讃美歌も時間がないからという理由で無造作に「1節と3節だけ歌いましょう」などと言ってしまいがちであるが、それでは作詞家の意図に反する場合が多いだろう。また、小説も最初から最後まで読み通してこそ意味があるように書かれているのであるから、一部分のみ取り上げて云々されるのは、作者にとっては迷惑な話であろう。

 聖書のたとえばパウロ書簡というものは、ある教会にあてて書かれたものであり、その手紙は家の教会で長老によって朗読され、会衆は耳を傾けたものであろう。長い手紙の場合は、一度に読み通さず、意味あるかたまりで区切って、解説したり祈ったりしたであろう。だから書簡などは、少なくともパラグラフで区切って読むべきであって、一節だけ取り上げてやたら細かく分析して読まれることは、記者の意図に反していると思う。だから、私は特別な事情でないかぎり、一節説教というのはすべきではないと考えている。

 また、現代は主観主義の時代で、もっともらしい哲学的説明を付けて、テクストの筆者の意図などどうでもよくて、読者の側が読みたいように読むというわがまま勝手な解釈法が流行っている。その手の最新の学説を一所懸命に追いかけている人たちがいる。もし学説が常に進歩し真理に近づくものであるならば、最新の学説を追求することに意味があるだろうが、どこに学説が常に進歩するなどという保証があるだろう。私は進化思想に毒されていないので、最新の学説が最善であるとは全く思っていないので、10年もすれば過ぎ去って行く最新の学説や流行には関心がない。大切なのは、聖書各書が伝えようとしていることを、正しく読み取ることである。

 

koumichristchurch.hatenablog.jp

よう窒息せえへんなあ

 朝4時半には明るくなって、新明町に続いて福音散歩に出かけてきました。途中、不思議なおじさんがいました。煙草を吸いながらゆっくり歩いているんですが、両鼻の孔に白いものを詰めているんです。つい、じっと見てしまいました。よう窒息せえへんなあ。
妻に言ったら、花粉症じゃないのかな、と。なるほど。
それにしても、よう窒息せえへんなあ。