苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

目と指

 パソコンに一日何時間も向かっている仕事をする人の場合、五十歳くらいになると、結局、目と手指が痛んでくることになります。パソコン本体は、私のようなひたすら字を書く仕事の場合は、ヤフオクで2万円も出せばOKという感じですが、キーボードとディスプレイだけは、少々お金がかかっても良いものにするのが、賢明であると思います。目と手がやられたら、もう仕事できませんから。

 私の場合、まず手が四十代半ばに痛み始めました。当時、信州に暮らしていて、寒い季節には特に指の第一関節が痛むのです。キーボードにはメンブレン式、パンタグラフ式、メカニカル式とありますが、メカニカル式は高価ですが、打ち心地がまったく違って指の負担もまったく違います。具体的には、私にはリアルフォースよりも、FILCOのメカニカルキーボードが良いようです。指は痛くなくなりました。赤軸、茶軸、青軸、黒軸とありますが、私の場合は茶軸と赤軸です。

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 やがて五十代前半になって目が痛んできました。疲れるとディスプレイの白いバックに黒い文字が緑色に見えて、これはまずいなあと思って調べました。そして、眼精疲労からくるひどい肩こり。「目に優しいディスプレイ」で調べるといろいろと書かれていました。青色光線が目に悪いとよく言われますが、もっと目に悪いのは肉眼では確認できないフリッカー(ちらつき)だそうです。フリッカーレスの大き目のモニターを手に入れて、目から距離をとってセットすれば、目はずっと楽になります。こちらもヤフオクであれば、手に入らないものではありません。私は定評あるナナオ(EIZO)のかなり古い物を手に入れました。

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北海道開拓の村

 昨日は15度―17度でちょっと寒かったのですが、朝から、北海道聖書学院の遠足で北海道開拓の村に出かけました。札幌市厚別区、JR新札幌駅の近くにあります。以前にも紹介したことがありますが、広々とした敷地に、明治、大正、昭和にかけての、洋館の役所、学校とか、民家が多く移築されていて、タイムスリップしたような場所です。
 学院生、職員、先生方と村内をうろうり見学して回って、みなさんたいへん興味を持った様子でした。お昼は食堂で、私は味噌ラーメンを食べました。専門店でもないのに、この食堂のラーメンは本格的でおいしいのです。
 そうそう、村内の広場に、竹馬がありました。と言っても、北海道には太い竹が生えていないので、竹でなく木で作ったものなのですが。私はどんくさいのですが、子どものころ竹馬をしたことがあるので、からだが不思議に憶えていて乗ることができました。同年配のS神学生も乗れました。若い神学生たちに見直されたかも。

9.11

 きのうは9月11日だったんですね。19年前のあの日、教育部員だった私は松原湖BCにいて、補教師研修会に備えていたんです。でも悪天候で人がなかなか集まれない状況で、教団事務所に電話をしたら、事務所の先生がなんだか興奮していて、「それどころじゃない。アメリカがえらいことになっている。」と言われて、初めて事件を知りました。
 それでツインタワービル、ペンタゴンで起こったことを知りました。ニュースではブッシュ息子大統領が出て来て、「たとい神がゆるしても、私はゆるさない」と言っていました。間もなくアルカイダとかオサマ・ビン・ラディンとかいう名が飛び交っていました。
 が、二週間ほどたったとき、知人の医師が「これを見るように」とDVDを持ってきました。その内容は、「ボーイングを捜せ」というものでした。あの事件は、あまりにも胡散臭いことが多すぎることを取り上げたものでした。また「911嘘を崩せ。ルースチェンジ』も見ました。
 ベルリンの壁が崩壊して、東西融和の時代が訪れて、米国の武器産業界は不景気にあえいでいました。しかし、911でブッシュが「テロとの戦い」という終わりのない戦いを宣言してくれたおかげで、死の商人たちは息をふきかえしたのでした。 
 911以降、私自身の世界の、特に米国に対する見方が変わりました。

文章の平明化

 最近薦められて、W. GrudemのSTを安く手に入れて読んでるんですが、英語が極めて平明。対象とする読者が一般読者であるからでもあるのでしょうが、これほど易しく書けるというのも賜物なのでしょう
 今、友人がJ.I.パッカーの個人的終末論に関する論文集を翻訳していて、ちょっとしたお手伝いをしているんですが、パッカーさんの文章はときどきわかりにくいのが紛れ込むんですよね。ちょっと昔の教養人の文章だからですかねえ。専門家を対象とした文章だからということもあるのでしょうが。そういえば、神学生時代友人たちと読書会をしたG.Vosの文章は私のような者には、むずかしかった。息子のJ.Vosは易しい文章。

文章の平明化は日本でも同じですか。今の高校生には漱石の文章も古典に属するそうで、売れない漱石全集や内村全集はヤフオクで三千円ですし。平明化はいいけれど、反面、文化が継承されないという弊害があります。
 大学から文学部を廃止するとまで言い出す文科省が伝統を大切にするとかいうのには、まったくがっかりさせられます。もっとも、彼らの言う「伝統」というのは、明治ににわか造りされた底の浅い国家神道を意味するにすぎないわけですが。

 

空が恋しいという歌

♪あーあ、人は昔々、鳥だったのかもしれないね。こんなにも、こんなにも、空が恋しい♪
 という歌がありますね。ぼくもあるとき鳥になりたいなあと思ったんですが、鳥がミミズとか食べているものを見たら、やっぱりやめとこ、と思いました。「いや、鳥になったら、それがおいしいと思うんだよ」と言われますが、意識レベルまで鳥になってしまったら、もう人間が鳥になった意味がないでしょうね。ただ、ひとり人が減って、鳥が一羽増えるだけ。


この空を飛べたら 加藤登紀子

デュプリケーター修理

 教会で使っているデュプリケーター(CD複数同時コピー機)が以前から調子が悪く、一部DVD/CDドライブを交換したりしていたんですが、先週とうとう全部だめになりました。たぶんこの様子からすると、ドライブでなくコントローラーが壊れているようです。新品は5-6万円します。
 そこで、コントローラーだけ取り寄せて交換することにしました。コードがたくさんあるのを外して、新たにつなぐだけの作業にすぎないのですが、仕組みがよくはわからないので、お祈りしながら当てずっぽうの作業です。新しいコントローラーは古いのと同じメーカーでないし、説明書は英語だし、神様たすけてください、と。
 一応つなぎおわってテストしたら、OKでした。これは感謝。

 

学問の目的と学会

 学問の目的は真理の探究であると思います。

 ところで、学界に論文を発表するとなると、何か新しいことを言わねばなりません。しかも、ただ新しいのでなく、その時代の学界のはやりすたりというものがあって、その時流に乗ったものでなければ学会で論文は評価されないそうです。それで、学者は学界の動向を見極め、従来の説にないことを書いてみるわけです。経済学の学者がそんなことを、半ば嘆きながら言っているのを読みました。また、聖書学や神学の世界でも似たようなことがあります。学界全体が聖書が何を教えているかを探求しているように装いながら、実際には、時代の価値観にあわせて解釈をゆがめているということがなくはありません。

 一人でただ研究するのでなく学会に加わるのは、切磋琢磨して学的成果を積み重ねていくためなのですから、上に書いたことは必ずしも悪いこととはいえません。他者の意見に耳を傾ける謙虚な姿勢は研究者として大事なことです。けれども、学界の動向、何か新しいことを言わなくてはという思いは、必ずしも真理の探究に役立つとはかぎらないことは明白でしょう。ノアの時代のように集団で真理から遠ざかっていくということにもなります。「伝道者の書」の著者に言わせれば、「これもまたむなしい」ということになるのでしょう。聖書における真理の探究に関して言えば、学界で互いの意見に謙虚に耳を傾ける以上に大事なことは、聖書の語ることに謙虚に耳を傾けることです。