苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

最後の教団理事会を終えて・・・「強固でなく、強靭な革袋を」

 昨日は私にとっては最後の教団理事会でした。20年間のご奉仕で、定年となりました。若い私が理事会に入ったのは、理事長が吉持牧師から赤江牧師に移った春でした。そのころ教団は地域教会の自律と、理事会の役割の境界線をめぐる難題を抱えてある出来事に関して直面していました。私も微力であっても問題解決にお役に立てないかと、話をうかがって回りましたが、なにも出来なかったなあという思いです。

 しかし、この件がかたちの上にすぎませんが一応の区切りがついた掛川での総会のあと、赤江先生と坂本先生と温泉に入っていたとき、赤江先生が、「これほど教会観・教団観の違いがあると、これから前進して行くことはできない。ここは長年の懸案である教団の機構改革をして、教会観・教団観の整理をして教団全体が一致しなければならない。転んでもただで起きるわけには行かない。」という趣旨のことをおっしゃいました。そうして、一応私が責任者で、坂本牧師とともに、他の委員たちとともに教団理念検討委員会をスタートしたのでした。

 法律に明るい坂本牧師は諸教団教派の教憲・教規を研究しつつ同盟基督教団の教規の研究を担当してくださいました。私は同盟基督教団の理念を明らかにすることが仕事でした。そのために、「日本同盟基督教団は『教団』なのかそれとも『同盟』なのか?」という当時しばしば口に上った問いに答えを出さねばなりませんでした。そこで、教団の歴史を調べることにしました。ひとつは「同盟基督教団」という名称の来歴は何であるのかを調べたのです。明らかになったのは、単立教会がある盟約を結んで同盟基督教団が出来たから「同盟」と称したのではなく、スカンヂナビア・アライアンス・ミッションの生み出した教団であるから、アライアンスの翻訳として「同盟」と冠したことが明らかになりました。したがって、日本同盟基督教団は同盟なのか、教団なのか」という問いに対しては「同盟という修飾語の付いた教団」であると答えることになります。「同盟」という修飾語は「力を合わせて福音宣教をする宣教団が生み出した」という意味です。

 もうひとつ明らかにしなければならなかったのは、当時すでに教団の中で耳にしていた「聖書信仰・宣教協力・合議制」という三本柱は何を意味するかということでした。私たちの世代は岡村又男理事長から耳にタコができるくらい、このことばを聞かされました。調べてみたところ、その昔、「世の光」に常任書記であった鋤柄和明先生がこの三本柱を述べておられたことが、その最初でした。もっともそこでは「三原則」という表現でしたが。この三本柱が教団にとって根本的なことだということは、私が若いころ松原湖で持たれた「教職何十年以上の先輩たちの会議」でした。何年以上かは忘れてしまいましたが、私はその会議で下働きをしたので、その場の自由闊達な意見交換の雰囲気は憶えています。教団理念検討委員会では、この三本柱が、どのような関係にあるのかと考えました。結果、「聖書信仰を土台とし、ともに宣教協力をするために、合議制という教会政治方法をとる。」ということです。聖書信仰が土台である。宣教協力が目的である。その手段としての合議制である。・・・ということになります。
 そこで、この理念にふさわしい教団の教憲・教規を整えることが次の仕事ということでした。それは法律に明るい坂本先生が機構改革委員長になっていただいて、そういう賜物を与えられている委員の方たちを加えて、緻密な仕事をして行かれることになりました。ただ、教団理念を担当した私が何度も申し上げたのは、「新しい革袋は強固な革袋ではだめです。強靭な、つまり、強くて柔軟な革袋でなければなりません。それが同盟基督教団らしさです。」ということでした。

 

<追記>革命と改革の違い
 なぜ歴史を振り返って、教団の名称の来歴を確認し、三本柱の出所と意味を考える必要があったのか。それは、本教団の不可変の部分と可変的な部分を確認するためです。不可変の部分とは、同盟基督教団が同盟基督教団である理由ということで、それをはっきりさせたら、それ以外のことがらは時代に応じて、規模に応じて変化させることが可能となります。

 今になって振り返って思うのは、私たちは革命を起こしたのではなく、改革を行ったということです。革命は理想主義的な考え方で現体制を全否定して根こそぎひっくり返してしまうもので、おびただしい犠牲を伴うものです。改革は歴史・伝統を重んじつつ、時代と規模など状況に応じて刷新するものです。不易をわきまえた上での流行ということです。なぞらえて言えば、フランス革命と英国市民革命の違いみたいなものです。フランス革命デカルト的理性による理想主義的革命でおびただしい血を流し、長きにわたってフランスの国力を衰えさせましたが、英国の市民革命は歴史と伝統を踏まえたものだったので国力を増進しました。

北海道聖書学院卒業式

 本日、北海道聖書学院で卒業式で、2名の本科生が卒業し、春からそれぞれ道内の教会に赴任することになります。お一人は女性で、かつて3年生の夏休み前に病を得て、7年7か月の闘病を経て、昨年春に復帰し、残りを1年間学び、卒論を書き上げての卒業でした。その入院生活は、神様から与えられた課外授業だったと受け止めて、「試みに遭ったことは私にとって幸いでした。私はそのことで、あなたの掟を学んだからです。」と結んでいました。
 もうお一人は、学校教員だった男性で60歳を超えて入学後、ギリシャ語、ヘブル語でかなり苦労したこと、思いがけない病気を発症したこと、ご家族のことなどもろもろの試練を経験し、これまで自分で計画し生きてきたつもりでいたけれど、自分ではなにもできないのだ、これから伝道者としてすべて神様に委ねるほかないことを学んだと証しなさっていました。
 ほか信徒コース3名の修了。そして、学院長、教師、スタッフの異動の発表がありました。みなお世話になった方たちばかりです。気が付いたら、私はまる7年HBIで教えています。 

 

 北海道聖書学院は、聖書を原語から学ぶ聖書釈義学、聖書を教理体系として学ぶ組織神学、また教理と教会の歴史をまなぶ歴史神学、そして伝道と教会形成を学ぶ実践神学ともにバランスがとれた神学校です。学院のカリキュラム、学院生活、学費等の紹介がHPにありますから、ご覧ください。学費は格安です。 

www.hbi-wmc.org

整体師のことばと近代聖書学

 Youtuberをしている整体の先生が話していたのですが、ハワイ大学から「すぐに来い。死後間もない人体が手に入った」という知らせがあったので、そんなチャンスはめったにないので出かけて、その死後まもない人体を動かしつつ解剖するのを見て勉強することができたそうです。普通の大学医学部の勉強では、もう時間も経ち、動かすことができなくなった人体を解剖して行うそうなので、実際のからだの様々な部位の可動範囲とか、連動関係などは実は多くの整形外科の先生も見たことがないのだそうです。けれど、自分はこのような機会に恵まれて幸運だったのだと話していました。確かに動かない遺体を研究しても、生きたからだの仕組みは本当のところわからないでしょう。

 この話を聞いていて、近代聖書学の方法の問題点について思い浮かびました。近代聖書学は18世紀の啓蒙思想の世界観の下に出来た学問です。啓蒙思想家たちの多くは理神論者でした。理神論では、英知界(イデア界)に住む神は現象界(私たちが住んでいる世界)を造ったけれども、後は放置しているので、現象界はそれ自体の法則にしたがって運営されている。神は現象界に介入して奇跡を起こしたり啓示を行ったりはしない。したがって、人間は理性の力でもって、この現象界を理解できるし支配できると考えます。つまり、理神論における「神」とは哲学者の神、観念上の神、死んだ神です。
 この啓蒙思想の「神」を前提とするならば、聖書に出てくるさまざまな奇跡は事実ではなく、そこからなにか譬えを学ぶための作り話だというのです。また、聖書は他の古文書と同じように、現象界の文化現象にすぎないことになります。彼らは創世記の創造記事はメソポタミアの神話の影響下に出来上がったのだと唱えたり、創造記事をカナンの神話の創世神話の枠組みで解釈したり、ヨハネ福音書をヘレニズム思想と関係づけて解釈したり、第二神殿期のユダヤ教文献と関係づけて解釈したりするならば、正解が得られると考えるわけです。
 しかし、聖書の神は、「哲学者の神」つまり死んだ観念上の神ではなく、生ける神です。みことばをもって世界を造り、摂理をもって世界を支配し、時には被造物である自然法則を停止したり強化したりして奇跡を起こし、さらには、ご自身、人となって世界に飛び込んで来られ、死んでよみがえったお方です。哲学者の神、死んだ神を前提とする近代聖書学の営みは、動かなくなってしまった古い死体の研究をしている研究者の営みと似ているなあと感じます。また、NPPはパウロの教えと後期ユダヤ教を同類なのだと主張しますが、無理でしょう。なぜなら、当のパウロ自身が、「兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(ガラテヤ1:11,12)と主張しているのですから。

 イエス様の時代、ギリシャの合理主義に染まって奇跡も天使も復活も信じないサドカイ派と呼ばれる人々がいました。イエス様は彼らに「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。」(マルコ12:24)と言い放ちました。イエス様は、同じことばを近代啓蒙思想の枠組みの中で聖書を研究している人々に仰るのではないでしょうか。

「教会史における教理」

 HBIの3学期は、「教会史における教理」というクラスと、「神を愛するための教理問答」のクラスを担当しました。
 前者は普通、「教理史」と名乗るわけですが、そのネーミングだと絶対精神の自己展開みたいな観念的なイメージがあるので、もっと具体的な教会の2000年間の歴史に根差しつつ、初代教会から今日にいたる教理を説きたいと思って、「教会史における教理」としました。
 神学生たちは、組織神学・カテキズムで学んできたことを、教会史の中で理解して、なるほどと胸に落ちることが多く、自分の所属する教会のルーツを知り、また、自分が遣わされていく歴史の中の教会という実践の場への心備えができたようです。

聖書解釈の3側面 実例(その2)

 聖書解釈には、状況的、規範的、実存的の3側面に着目することが重要である。創世記1章において状況的という点は、執筆状況を取り上げたが、状況的面で常に重要なのは、文脈ということである。今回はその一例を紹介したい。聖書箇所はマルコ14:1,2の解釈である。文脈理解のために12:41から引用しておく。

41**,それから、イエス献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。**
42**,そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。**
43**,イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。**
44**,皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」

1**,イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」**
2**,すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」**

 まず状況を弁えることについて。残念ながら後代の章立てによって文脈が切られてしまっているのだが、14章末尾からの文脈を弁えれば、主イエスの弟子たちに対する2節のことばの意味がよくわかる。すなわち、「ついさっき神殿の中で、君たちは金持ちたちが有り余った中からささげる金貨、銀貨の献金に目を奪われていた。だがわたしは君たちに『神の前に価値ある献金はレプタ銅貨二つの女があるもの全てささげる献金の方が価値あるものなのだ』と話したばかりではないか。それなのに君たちは、またヘロデ大王が自己顕示欲のために建てたデラックスな神殿に感心している。こんなものは神の前には何に価値もないのだ。」主イエスはそう言いたかったのである。

 読み取られる規範的な意味は、「神へのささげ物の価値は、うわべの素晴らしさではなく、ささげる者がほんとうに献身と感謝の思いを持っているか否かにかかっている。」ということである。

 そして、実存的な点については、「一体、私は主の日ごと、また月ごとにささげる献げものは、感謝と献身の表現になっているだろうか。ただ習慣的なものに堕していないだろうか。ときには虚栄心になっていないだろうか。」と突き詰め、もし欠けたところがあったとしたら、神様の前に悔い改めることである。

聖書解釈の3側面 実例

 今日は北海道聖書学院での2023年度最後のカテキズムの授業だった。対象は信徒コースと聴講生たち3人である。時間配分が今一つうまく行かず、最後に1コマ余ったので、聖書的教理体系をカテキズムで学んだ者として、実際に聖書を読んで行くときに、それがどのように役立つのかということを創世記1章を用いてお話した。

 聖書解釈にあたっては、状況的、規範的、実存的の3点が大事である。

 まず創世記1章の創造記事が書かれた状況について。モーセがエジプト脱出を果たしたイスラエルの民を相手に神のことばを伝えているという状況である。イスラエルの民は、月、星、太陽、ナイル川、オオカミ、山犬、フンコロガシ、ワニなどありとあらゆるものを神格化して拝んでいるエジプトに400年も暮らしていた人々である。この状況をわきまえるならば、創世記1章の創造記事の意図するメッセージは、「あなたがたがエジプトで見てきた、神々として祀られているものは神ではない。真の神は、これらすべてを造ったお方だけである。」ということだとわかる。

 こうして第二に、この創世記1章の記事から読み取れる規範的なことは、「真の神は唯一のお方、創造主である。」という教理だということがわかる。また「あなたにはわたしのほかに他の神々があってはならない。」という十戒の第一戒である。

 そして第三に、創造主なる神のみが礼拝すべきお方であるという教理を、「私の生活にどのように適用すべきか?」と実存的につきつめることである。自分の生活の中で創造主以外のものを、神としていることはないか?と自問してみる。クリスチャンであれば、あからさまな偶像崇拝はしていないだろうが、もし神よりも世間体を恐れていたら世間体を偶像としていることになる。また、トイレで腰を下ろしても、電車でつり革にぶら下がっても株価の上下が始終気になって仕方ないならその人は金銭を偶像化するマモニズムに陥っているのである。自分が偶像崇拝の罪を犯して来たことを神の前に告白して、悔い改める必要がある。

 

「存じ上げません」?

シリーズでもありませんが、気になる妙な日本語。
安倍派の塩谷さんは、裏金問題の件で政治倫理審査会に引っ張り出されて、「(裏金問題の経緯については)存じ上げません」と何度も言って、新聞の見出しになっていましたが、なんか変だな、気持ち悪いなあと感じました。調べてみたら、「存じ上げる」というのは知る対象が人である場合の表現です。誰それに敬意を表すための謙譲表現です。ところが「裏金問題の経緯」は物事なので、「存じ上げません」ではなく、「存じません」が正しい日本語です。