苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

実験科学と自然史推測学-パラダイムの違いー

1.2種類の「科学」

 17世紀にガリレオケプラーパスカルらが確立した自然科学は、実験によって仮説を実証するもの、つまり、実験科学であった。ある事象について仮説を立て、仮説に基づいて実験をすることを繰り返しつつ、事象の本質に迫っていくというものである。したがって、実験科学は現在起きている事象を対象とし、過去に一度限り起きた事象、未来に起きる事象は、対象外であった。

 しかし、19世紀以降、生物進化論、宇宙進化論は実験科学ではない。生物進化論・宇宙進化論は、過去に一度限り起こった事象、未来に起きるであろう事象を対象とするからである。それは、今手元にある史料・資料からから過去に起こった事象がどういうものであったかを推測し、未来に何が起るかを推測するだけであって、実証できない。つまり、生物進化論・宇宙進化論は実験科学ではなく、むしろ歴史学や犯罪捜査学に類するものである。歴史学は、皇国史観に立つのか、それともマルクス唯物史観に立つのか、それとも全く別の史観に立つのかによって、史料の選択と解釈が全く異なる。犯罪捜査についても、「検察のシナリオ」が冤罪を生むことがしばしば話題になる。進化論が今日では「科学」に分類されているせいで、本来の実験科学と混同し確実なものだと錯覚している人が多い。

 この混乱を避けるためには、むしろ本来の科学を実験科学と呼び、過去と未来を推測する営みは自然史推測学とでも呼び分けるのが適切である。両者は方法論が本質的に異なり、確実性にも雲泥の差があるからである。

 

2.パラダイムの問題

(1)3つのパラダイム

 自然史推測学の場合、その解釈者のパラダイムが、学説を決定的に左右する。パラダイムとは、ものの解釈の根本的な枠組みのことである。自然界の過去と未来を解釈するパラダイムは整理すると、結局3つの立場がある。だが、進化論者には自分が「自然は閉じた系」であるという特定のパラダイムに立っていること自覚せずにいる人が多い。

①有神論的特別創造論

 神は特別の働きと通常の働きによって自然を支配すると解釈する。神の特別の働きとは、ことばによって無から世界を創造したこと、また造られた世界にみこころのままに介入し、啓示や奇跡を行われることを意味する。通常の働きとは、神が造った自然法則によって、自然を統治することを意味する。

無神論的進化論者

 創造主は存在しない。自然法則なるものは自然の性質としてもともと備わったものであり、自然法則によって今日の姿にまで宇宙は出来上がって来たし、未来も自然法則の赴くままになって行くと信じている。

③有神論的進化論者

 創造主は存在すると信じるが、無神論の進化論者と同じように、神が今も通常に用いておられる自然法則で、過去において自然を創造し支配してきたと信じている。だから実質、彼らは理神論者である。彼らは自然の出現の方法は無神論的進化論者と同じ解釈をする。矛盾しているのだが、有神論的進化論者は、同時に、啓示やキリストの受肉や復活や再臨という自然法則を超えることもある程度は信じている。

 

(2)パラダイムによる聖書解釈の違い

 解釈者の立っているパラダイムによって、聖書の解釈は大きく違ってくる。例えば、ガリラヤ湖上、大風が吹いて弟子たちの舟が難渋しているところ、イエスが歩いて近づいて行かれたという記事の解釈を取り上げよう。

①有神論的特別創造論者は、イエスは万物の創造者であり自然法則の支配者であるから、必要に応じて自然法則を停止するなり強化するなりして、実際に、イエスは水の上を歩かれたと理解する。

無神論的進化論者は、奇跡は起こりえないというパラダイムゆえに、イエスが水の上を歩いたことはありえないと考える。そこで、ガリラヤ湖上の出来事というのは、使徒その他による作り話にすぎないと解釈する。

③有神論的進化論者は中途半端なので、幅がある。自由主義神学の影響下の有神論的進化論者は、無神論者と同じように、イエスが湖上を歩いたことはありえないと考える。そこで、使徒その他による作り話と解釈するが、そこには何か有難い意味があるたとえ話であると解釈する。他方、福音派に属する有神論的進化論者の多くは、イエスの奇跡は実際に起こったことであると信じているケースが多いだろう。だが、過去の自然の創造のプロセスについては、無神論的進化論者の解釈が正しいと信じている。

 

3.創造記事の解釈の前提

 我々が創世記1章、2章の、世界創造の記事を解釈するにあたって、まず確認すべきことは、創造のわざは通常の方法によったのか、特別の方法によったのかということである。聖書は次のように教えている。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」へブル11章3節

 聖書は、この世界の創造は、信仰によって認識すべきことであると教える。なぜなら、神は世界を<神のことばによって、見えないものから>という特別な方法で創造したからである。だから、世界は自然は閉じた系であると信じる科学者たちがしているように、自然の通常の営みから推論することによって、世界の出現がいかなるものであったかを推論することはできない相談である。

 

4.パラダイムの違いと自然史解釈の違い

 歴史学で歴史家の歴史観によって、歴史の解釈がまったく異なる。歴史家は、自分の歴史観を説明する上で有効な史料を取り出し、自説に不利な史料をについては無視することが多い。そして用いる史料の解釈も、自説に有利なように解釈するのである。同じことは、自然史推測学でも起こる。

①有神論的特別創造論者は、三位一体の神が存在していること、そして聖書をもって創造について啓示しておられることを前提としているので、神が意志されたときに、世界は「6日間」と呼ばれる短期間に完全なかたちで創造されたと考える。その観点から、化石証拠、生物の形態、遺伝子の構造などを解釈する。

無神論的進化論者は、神は存在しないことを前提としているので、この複雑で秩序ある世界が短期間に出現したはずはないと考える。したがって、もともと宇宙の性質として存在する自然法則が、極めて長期間をかけて、宇宙の仕組みと地球と地球上の複雑なシステムはできあがったのだと信じている。そのパラダイムに沿って、化石証拠、生物の形態、遺伝子の構造などを解釈をする。

③有神論的進化論者は、三位一体の神が存在していることは信じているが、聖書は神が創造者であることのみを教えているのであって、創造がいかなるものであったか(HOW)については教えていないと主張する。彼らは、宇宙と地球と生物の出現がどのようなものであったかについては無神論的進化論者と同じことを信じている。つまり有神論的進化論者は、現象界(HOWの世界)は自律的理性で探求し、英知界(道徳・宗教の世界、WHYの世界)は心で探求するのだとするカント由来の二元論、あるいは理神論的世界観に立っている。

自然科学の変質

1.自然科学の本来の守備範囲
 近代自然科学の方法論が確立したのは17世紀のことである。その背景には、キリスト教信仰があったことは、教会史家たちの今や常識である。ルネサンスの三大発明はいずれもアジア圏におけるもので、羅針盤、火薬の発明はともに中国でなされ、活版印刷術は朝鮮で発明された。個々の発明は他の文明圏でもあったのだが、宇宙全体を支配する法則があることを信じて探求する近代自然科学は、ヨーロッパ・キリスト教社会においてこそ誕生しえた。それは、天地万物の見えるもの見えないものすべてを創造したreasonある神が実在し、その神がreasonに貫かれた被造物世界を造ったゆえに、神からreasonを付与された人間はこれを読み解き、表現できるという信仰があったからである。

 ガリレイケプラー、ボイル、パスカルといった人々が確立した自然科学の方法とは、ある現象を観察し、これについて仮説を立て、仮説に基づいた実験をし、実験結果が仮説において想定した通りであれば、その仮説が正しいものとするものだった。もし実験結果が仮説において想定したものと違っていれば、仮説を立て直して、また実験をする。このようにして、実験による検証を繰り返して現象を成り立たせている真相に近づいて行く。それを数式化し、さらに演繹によって体系化をする。・・・とまあ、こういうことである。したがって、自然科学の守備範囲というのは、今、目の前で起きている現象に関するものであった。だからこそ、実験をして検証することが可能なのである。例えば、物体を落下速度についての仮説を立て、何度も何度も実験をして繰り返すといったことである。 したがって、本来、自然科学の守備範囲は今現在起こっている現象にかんすることに絞られる。過去に起こった一回限りのこと、未来のまだ起こっていないことは、その守備範囲外なのである。

 

2.守備範囲の逸脱

 ところが18世紀、19世紀になって、理神論やがて無神論が流行し始めると、自然科学の守備範囲が過去や未来に拡張されるようになる。過去生物はどのように生まれたのか、過去地球はどのようにしてできたのか、未来、地球はどうなるのか、未来、太陽系はどうなるのか。こうしたことを推測するようになったのである。

 だが、過去に一回限り起こったことは実験によって検証することはできないし、未来に起こることも実験によって検証することはできない。ただ、現在起こっていること、あるいは今に残されている痕跡から、理神論的前提、あるいは、無神論的前提に立って過去と未来を推測しているだけのことである。だが、それは推測にすぎないから、当然のことながら現代の夢見がちな科学は、17世紀に確立された本来の実験科学のように確実な結果は得られようがない。

 

インテリジェント・デザイン論に反論する人々

 自然科学はHOWを問う学問であって、WHYは守備範囲外のことであるとしばしば言われる。こういうことを言いだしたのは、18世紀の哲学者インマヌエル・カントである。カントは人間は感覚器官によって外から情報を時間と空間という感性形式で取り込んで、それを悟性のカテゴリーにあてはめて科学的認識が成り立つと考えた。だとすると、神、魂、自由といった事柄は嗅ぐことも見ることも触ることも味わうことも聞くこともできないのだから、これらは科学的認識として不可能だと考えた。人間が科学的に知ることができるのは、五感でキャッチできることだけでありこれは科学の対象だが、五感でキャッチできない神・魂・自由・信仰・生きる意味などつまりWHYにあたることは科学の対象外であるということである。

 近年インテリジェント・デザイン論を唱える学者が出てきている。被造物の姿を見れば、その背後には知的なデザイナーがいることはわかるという大昔からある神の存在の目的論的証明の議論ではある。だが、これに対して多くの科学者が猛烈に感情的に反論したり、鼻から軽蔑して退ける。この人たちは、カントのパラダイムの中の住人なのである。

 では、聖書はなんと言っているか。

「18,というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。19,神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。20,神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。21,彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。」ローマ1:18‐21

 つまり、聖書は、第一に、神の永遠の力と神性は被造物によって知られる。神が啓示しておられるのだと述べている。つまりインテリジェント・デザイン論に軍配を上げる。

 第二に聖書が教えることは、神は被造物を通して啓示を与えておられるのだけれども、神に背を向けた人々はその真理を受け入れることができないでいる。頭がいいだろうに、被造物を通しての創造主からの啓示を猛烈に反論して受け入れることができないでいる有様は、神の怒りの啓示なのだと教えているのである。

聖書の創造記事について

1.通常の方法なのか、特別の方法なのか

 神が被造物に対して行われる行為には、通常の方法と特別の方法がある。通常の方法において、神はご自分が定めたいわゆる法則をもちいて、被造物を導かれる。特別の方法においては、神は法則を超えて無から万物を創造した力をもって被造物を導かれる。これがいわゆる奇跡である。

 たとえば、主イエスガリラヤ湖を吹き荒れる嵐に向かって、「黙れ、静まれ」とお命じになって嵐を静められたという出来事は、創造主としてのことばの権威をもって鎮める特別の方法によるものだった。このことを正しく認識するには、主イエスが万物を支配する神としての権威をもっておられること対する信仰のパラダイムが必要である。もし、信仰がなく自然主義パラダイムしか持っていないと、彼は通常の自然法則からこの出来事を解釈しようとするから、「タイミングよく、偶然に静まっただけだ」などという愚かな解釈をすることになってしまう。

 では、聖書は、神が世界を創造した方法は、通常の方法なのか、それとも、特別の方法なのか、どちらだと述べているだろうか?神は世界を無から、ことばによって、創造されたとあるのだから、特別の方法によったと教えていることは間違いない。

 したがって、過去のある時点においてなされた神の世界創造がいかなるものであったのかを正しく知るには、現代の科学者たちがしているように、神が世界を摂理するために今も用いておられる通常の法則から推測することは無効である。聖書に記されたことを信仰によって受け入れてこそ、その真相を悟ることができる。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」へブル11:3

 

2 奇跡(創造)には時間性・歴史性が含まれる

 主イエスは「エパタ」とおっしゃって聾唖の人を瞬時に、聴き話すことができるようになさった。いうまでもなく、これは特別摂理(奇跡)であるが、この奇跡にはこの聾唖者の過去のいわば失われた長い時間が含まれている。彼が生まれながらの聾唖者で仮に20歳であるとすると、彼が言語を話せるために、主イエスは単に彼の身体の言語機能の欠損部分をその権威によって創造しただけでなく、彼が幼少期から20歳にいたるまでに経験すべきだったが経験できなかった言語習得のための経験・学習ということも併せて、彼に与えたのである。そうでなければ、聴いて理解し話すための身体の諸器官が与えられても、彼は会話をすることはできなかった。このように、主の特別摂理(創造的な奇跡)には、時間性・歴史性というものが含まれているのである。

 最初の人、アダムとエバが創造されたとき、彼らは赤ん坊でなく大人として造られた。彼らは、単に身体的に大人として造られただけでなく、通常の場合母の胎内に宿って以来、その年齢に達するまでに経験すべきことがらを経験したものとして創造されたのである。さもなければ、彼らは会話をすることをはじめとして他の経験を要する行動をすることができなかった。

 同様に、神は、被造物世界全体をも、最初からある時間性・歴史性を帯びたものとして創造なさった。そうでなければ、世界全体がシステムとして機能しない。

 

3 宇宙は古く、地球は新しい

 「宇宙の年齢」とネットで検索すると138億年という数字が出て、「地球の年齢」と検索すると46億年と出てくる。これは現代の科学者たちが、放射性同位元素に基づいて計算したとのことである。通常摂理における法則にしたがって計測した結果の数字である。新説では宇宙の年齢は276億年ともいう。

 聖書はなんと言っているかというと、「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)とあり、「天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成った」(2ペテロ3:5)とあるから、宇宙は古く、地球は新しい。だから、創世記1章の記事は1章1節「初めに神が天と地を創造した」で「天」に触れているけれども、ほとんどは地球の生命圏に関する記事である。

 「日(ヨーム)」の長さについては24時間説と何億年とする長期間説がある。1日目に光、二日目に大気圏と上の水と下の水、三日目に陸地と植物、四日目に月・星・太陽に暦を担当させたこと、五日目に空飛ぶものと海に住むもの、六日目に陸上動物(昆虫、両生類・爬虫類・哺乳類)そして人間が造られたとある。四日目に天体に暦が委ねられたことを見ると、四日目以降は24時間と言えるが、その前の1~3日の長さについては断定することはできない。

 だが、少し考えれば、1日を何億年とする説は無理であることがわかる。三日目に造られた植物は受粉させてくれる昆虫がいなければ生存できない。ところが昆虫は六日目に造られたとある。このことにかぎらず、地球の自転と公転と太陽からのバランスの取れたエネルギーの供給や、地球上の無機物からさまざまの生命体までの相互依存関係があるというシステムを鑑みれば、地球の生命圏はごく短期間に組み立てられなければ、全体として機能しないのである。したがって、「宇宙は古く、地球は新しい」というきわめて大雑把な点では、ネット上の常識と共通するけれども、特に地球は進化論がいうようにダラダラ何10億年もかけて試行錯誤しながら今のようになったという解釈は、聖書にも地球の生命圏のシステムにも適合しない。

初春のお慶びを申し上げます




                             2025年元旦
 昨春、修治は定年に達して、ようやく教団の重責を解かれて、毎月上京しなくてもよくなり、北海道の宣教に専念できる身となりました。感謝しています。
 その記念ではありませんが、夏休みをいただいて、夫婦でこず江の実兄姉たちが住む岐阜と長野の小諸に数日間の旅を敢行しました。信長の岐阜城からの濃尾平野の眺め、中央線から見る美しい信州の山々が今も瞼のうらに焼き付いています。8年前に苫小牧赴任以来、初めての兄姉たちとの交流は懐かしいときでした。本当にやさしく誠実な方たちなのです。幼かった姪の娘は、もう大学受験を控える年齢でびっくりしました。
 さて、2025年も私どもは足を使って苫小牧17万市民への福音文書の配布に励みつつ、赤ちゃんからお年寄りまで幅広い教会の牧会に励みたいと願っております。
  皆さまの上に神様の祝福が豊かにございますよう、お祈り申し上げます。

                     主にありて

                          水草修治、こず江