苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書啓示が具体性を伴うわけ

ソクラテスは『パイドン』の中で「哲学は死ぬことの練習である」と言います。「哲学などする人は自殺したくなるんじゃない?」と言う人がいますが、ソクラテスが言おうとしているのは、そういうことではありません。
 ギリシャ的な死生観によれば、死とは魂が肉体から分離することです。それは、人間において時間的・空間的制約ある肉体から魂が分離して、そうした制約を受けない永遠的・超空間的な境地に入るということを意味しています。
 ひるがえって、哲学とは、時空の制約を受けた肉体的・現象世界の事象から離れて、「善」とか「正義」とかいうような時空の制約を受けないイデアを見出そうとすることです。というわけで、哲学は死ぬことの練習だというわけです。おもしろいことを考えますね。やっぱり哲学者というのは、ちょっと変わっています。
 しかし、私たちの生は、時間と空間の中でこのからだをもって営まれているわけですから、それらを捨象した哲学の作業というのは、どうしたって生を失ったものになってしまいます。
 そこに聖書の啓示は、抽象的議論でなく、具体的なある時代のある地域に生まれて死んだアブラハムという名の特定の人、彼から生れ出た具体的な一つの民族を通して、なされたということの意味が見えてくるように思います。生ける人格である神が、生きている私たちに語り掛けられるにあたっては、そういう具体性をともなう方法がふさわしいということです。