苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神は愛であるということ

 1コリント13章4節から8節には、愛の具体的な中身の説明が豊かに説明されている。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を嫉みません。愛は自慢せず高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず。怒らず、人のした悪を思わず。不正を喜ばずに真理をよろこびます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」

 ガラテヤ5章22節には、「御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とある。この「実」カルポスは単数形である。御霊の実は愛である、愛の中には、ミカンのように、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という房が入っているということとも読める。

 つまり、愛というのはこういう多様な側面を含んでいるものなのである。愛の中には「不正を喜ばず真理を喜ぶ」といったことも含まれているのである。つまり、愛の中には義が含まれている。だが、どうも私の印象では、従来、多くの人々によって「愛」は「義」と対立する語であるかのように使用されて来た。だがむしろ「義」と対立するのは「あわれみ」である。「愛」のうちに「義」と「あわれみ」が含まれている。神が義なる審判者として、悪しき者を断罪し刑罰を科するにあたっても、神は愛なのである。

 神は悪者を罪に定める審判において義の栄光をあらわされ、悪者をあわれんでキリストのゆえに赦す審判において恵みの栄光を現わし給う。赦しの審判において神は愛であるだけでなく、罪に定める審判においても神は愛である。

 愛の反対とは憎しみでなく無関心である。神は愛であるから、ご自分に似た者として創造した一人一人の人間に無関心ではない。神が愛であるからこそ、悪者を無視せずこれをさばき刑罰をお与えになる。神はご自分の似姿として造った人を、あくまでも神の前に自由と責任ある尊厳ある人格として愛したまうからこそ、これに責任を問い給うのである。

 

 愛するとは、相手を受容することだけでなく、同時に、相手を自由と責任ある人格として尊ぶことである。受容だけでは無限抱擁的・汎神論的な甘やかしとなってしまい、それは人を健全な精神に導かない。罪は罪として明確に断罪されつつ、受容されることを経験されるとき、人の精神は健全なものとされる。「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」を要求する福音、そして、教会における戒規とはそういうものである。