苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「はじめに、ことばがおられた」

 岩波版新約聖書ヨハネ福音書1章1節を小林稔氏は「はじめに、ことばがいた」と訳した。これに対してはずいぶんと批判もあったそうである。小林氏の意図するところは、ことば(ロゴス)が単なるストア哲学がいうような原理といったモノでなく、生命ある人格であるということを表現したかったからであろう。

 英語でいえばbe動詞で同じなのだが、日本語では存在を表現する動詞は、物のばあいはたとえば「ある」と表現し、生命ある存在の場合は「いる」と表現する。だが、日本語の「いる」は、生命あるものであれば、犬でも猫でも人でも「いる」と言えてしまうから問題が生じる。山田晶先生(勝手に私淑しているので先生とよばせていただく)は、「『いた』というとどっかの檻の中にいたみたいだ」と批判したのはこの点である。

 しかし、小林氏はなんとかして、ヨハネ福音書1章が教えようとしている神のロゴスの特異さを表現したかったわけである。ヘレニズム世界においてロゴスといえば、非人格的な世界の構成原理を意味していた。しかし、ヨハネ福音書が告げるロゴスは、非人格的な原理でなく、生命があり、かつ、父なる神の懐に抱かれた最愛の御子でいらっしゃり、かつ、人となってわれわれの間に住まわれたお方である。だから、「あった」ではなく、「いた」という訳語を選んだのであろう。

 では、どう訳せばよかったのだろう。永遠のはじめから、父と愛の交わりのうちに生きておられ、人となって世に来られたお方であれば、「いらした」あるいは「おられた」というのが日本語として普通であろう。探してみたら、塚本虎二がちゃんとそのように訳している。

(世の)始めに、(すでに)言葉はおられた。言葉は神とともにおられた。言葉は神であった。

   さらに日本語のむずかしい「は」と「が」の問題がある。「ことばがおられた」と訳すのか「ことばはおられた」と訳すのか。「は」と「が」の使い分けはこれまたむずかしいけれど、今回は書かない。