苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

同性間性交に関する、聖書に基づくメモ(加筆再録)

 クリスチャン新聞2022年5月22日号が「教会とLGBTQ」という特集記事を掲載した。それを読んだある知人が水草の見解を明らかにするように、と手紙をくださった。その記事は「聖書をどう読む 冷静に検討促し LGBT肯定を評価」というのが第一面の見出しとなっている。

 聖書をどう読むかを冷静に検討することには大賛成なので、伝統的見解に固執せず、さりとて、今日の世間の風潮にも流されず、以前、このブログにアップした聖書の教えのメモに加筆修正して再掲載しておく。加筆したのは「1」の思想史メモ。

 

1 中世・近世・近代・現代思想の流れと神学への影響

 まず思想史的なことをメモしたい。16世紀、宗教改革が起こり、改革者たちは聖書から離れ迷信的儀式主義に陥っていたローマ教会の束縛から解放され、聖書に忠実に従うことを目指した。17世紀は専制君主制の下、国教会主義が聖書に忠実に歩む教会の束縛となったので、国教会の束縛から解放を求める自由教会の歩みが始まった。自由教会の自由とは、国家の束縛から自由にされ、聖書に忠実に従うことを目指す自由である。

 他方、同じ時代に啓蒙主義者たちは専制君主制国家と国教会の束縛だけでなく、理性を神のことばである聖書の束縛からも解放することを目指した。啓蒙主義は究極的に個人の理性による自律がその目指すところである。啓蒙主義自由主義神学は、その影響を受けている。自由教会の自由と、自由主義神学のいう自由とはまったく意味が違うので注意しなければならない。つまり、宗教改革者とその霊的子孫は、ローマ教会・専制君主制・国教会の束縛から解放されて、聖書に忠実な生き方を目指しているのに対して、啓蒙主義自由主義者・人権論者はローマ教会・専制君主制・国教会のみならず聖書の束縛からも解放されて、少数者・個人の自律を目指している。つまり、「何から解放されることを目指すか」という点では宗教改革の子らと、啓蒙主義自由主義の子らは共通しているのだが、「何を目指しているか」という点で、宗教改革の子らと、啓蒙主義自由主義・人権論者とはまったく異なっているのである。

 啓蒙主義は神学に影響を与えて、啓蒙主義神学・自由主義神学が現れる。啓蒙主義神学とは理神論である。自由主義の発端のシュライルマッハーは、啓蒙主義では情緒的な面が欠けると批判して汎神論的神への絶対依存の感情を宗教の本質とする。その流れから「解放の神学」が現れた。発端は米国資本によって収奪されていた中南米貧困層の解放運動のため戦った神父たちの主張である。それがさまざまな少数者・弱者の解放に適用されることになり、解放されるべき少数者・弱者とは、中南米貧困層、米国社会で差別されてきた黒人、日本における被差別部落、身体障碍者、女性、そして、今日LGBTQとされているわけである。啓蒙主義自由主義由来の運動の刺激が、いくつかの点で旧来の誤った聖書解釈を正したのは事実であり、それは有意義なことである。しかし、だからといって少数者の行動であれば、みな是とせよと聖書が教えているわけではない。

  聖書は「裁判では人を偏って見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものだからである。」(申命記1:17)と教える。えてして権力や富のある者、多数派に偏ったさばきがなされがちであるから、「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。あなたがたの神、主は神の神、主の主、偉大で力があり、恐ろしい神。えこひいきをせず、賄賂を取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行い、寄留者を愛して、これに食物と衣服を与えられる。あなたがたは寄留者を愛しなさい。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。」(申命記10:16-19)とも教えられている。だが、少数者・弱者だからなんでもOKだと聖書が教えているわけではなく、正義の神は さばきは公平である。

「不正な裁判をしてはならない。弱い者をひいきしたり強い者にへつらったりしてはならない。あなたの同胞を正しくさばかなければならない。」レビ記19:15

 

 

2 同性間性交に関する聖句

 

(1)創世記における、神が定めた結婚の秩序

創世記1:28

「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。』」

創世記2:24

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

 創世記1章、2章は、同性間性交を明確に禁止している箇所ではない。しかし、創造つまり堕落前の正常な状態において、神は、性交は夫婦(男女)の間で行なわれるものとして定めたことを教えていることは確かである。男女の性交でなかったならば、生むことも増えることもありえなかった。

 

(2)旧約における同性間性交の禁止

レビ記18:6-25の特に22節

6だれも、自分の肉親の者に近づき、相手の裸をあらわにして交わってはならない。わたしは主である。・・・(以下もろもろの近親相姦リスト中略)・・・

20また、自分の同胞の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない。

21また、自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない。あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。

22あなたは、女と寝るように男と寝てはならない。それは忌み嫌うべきことである。

23動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も、動物の前に立って、これと交わってはならない。それは道ならぬことである。

24あなたがたは、これらの何によっても身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている異邦の民は、これらのすべてのことによって汚れていて、

25その地も汚れている。それで、わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。」

 カナンの住民たちが滅ぼされた理由となった諸々の習俗(近親相姦・姦通つまり異常な異性間性交・月経中の性交・モレク神への子ども奉献・獣姦)と並んで、同性間性交が禁じられている。同じような文脈で、レビ記20:13も同性間性交が禁じられている。読者は自分で文脈を吟味されたい。

「男がもし女と寝るように男と寝たなら 、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」(レビ記20:13)

 レビ記の律法は必ずしも新約の時代には適用されないから、同性間性交は問題ないという主張がある。だが、これらのもろもろの罪のリストの中の一つに男色があることを見れば、そういう主張には無理があると認めざるをえまい。

 

(3)新約における諸々の罪のリストの中の同性間性交

 使徒パウロは、神の国を相続できない諸々の罪のリストの中に、男色をする者を挙げている。 

 「あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者男色をする者(アルセノコイタイ、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(1コリント6:9、10、11)

 「すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。」(1テモテ1:9,10

 ある人々は上記のアンダーラインのことば「男色をする者」と訳された「アルセノコイタイ」は男性売春、性的虐待を限定的に指しているのであって、同性間性交を一般に罪としているわけではないと主張するのだが、テモテ・コール氏によれば、この主張には無理がある。

 第一に、紀元1世紀のユダヤ人ヨセフスによれば、当時、男性同士の性行為は禁止されていた。

 第二に、当時、男性売春、性的虐待を意味することばとしては、パイデラスタイ、パイドマナイ、パイといったことばがあったから、もしパウロが男性売春、性的虐待を意味したかったならこれらの語を使ったはずである(Robert Garnon,The Bible and homosexual Practiceを参照)。 しかし、パウロはこれらのことばを使わず、あえてアルセノコイタイという語を使った。アルセーは男性を意味し、コイテーはベッドを意味する。「アルセノコイタイ」は、パウロレビ記20章13節の70人訳ギリシャ語聖書のことばから造語したのである。

「男がもし女と寝るように男と寝たなら 、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」(レビ記20:13)

καὶ ὃς ἂν κοιμηθῇ  μετὰ  ἄρσενος κοίτην γυναικός, βδέλυγμα ἐποίησαν ἀμφότεροι· θανατούσθωσαν, ἔνοχοί εἰσιν.(70人訳)

  パウロがこの語を用いたのは、男性売春、性的虐待に限定せず、レビ記を背景として「男と寝る者」「男色」という広い意味で使うためである。レビ記の戒めを背景として、男色は、偶像崇拝、姦淫、不品行、泥棒、不敬虔、親殺し、誘拐、偽証、酒におぼれることといったもろもろの罪と同列にされる罪であるとパウロは教える。

 1コリント6:10-11から私たちが学ぶべきことは2つある。
 第一は、同性間性交という行為は神の前に罪であるということである。同性間性交という行為は、偶像礼拝、姦淫、窃盗といったことが単なる嗜好として片付けられないのと同様に、単なる嗜好として片付けてはならない。

 しかし、第二に注意すべきことは、同性間性交という罪は、偶像礼拝、淫行、姦淫(つまり則を越えた異性間性交)、窃盗、略奪、泥酔その他のコリントの住民の習俗のうちに見られたもろもろの罪の一つとして扱われているということである。不道徳な町コリントの人々の中から救い出された者として、これらの罪に逆戻りしてはならないと警告しているが、これらの罪を再び一度でも犯したら悔い改めの余地なく地獄行きだなどと教えているのではない。パウロは前の5章で罪と戒規の問題を扱っている。戒規は本人の悔い改めと救い(5:5)、教会全体への罪の感染防止のためになされる(5:6)。しかし、もし罪を罪と認めて悔い改めず、常態的に罪に溺れる生活をしているならば、その人は神の国を相続できないと警告しているのである。もしキリストを信じる者となったのに、たまさかこれらの罪に陥ってしまったときには、戒規を受けて悔い改めて主に立ち返れと勧めているのである。

 だから、同性間性交は罪に当たらないと教えることは、誤りであり、危険なことである。それは偶像礼拝も窃盗も姦淫も罪に当たらないと教えることと同じである。

 

(4)断罪される同性間性交

 レビ記1コリント、1テモテでは男色が取り上げられて罪とされるが、ローマ書では、偶像礼拝の罪の後に、女性の同性間性交が「自然に反するもの」つまり神の創造の秩序に反するものとして挙げられ、その後に、もろもろの罪のリストが掲げられている。

 「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。」(ローマ1:2627

 

 以上のように、聖書が同性間性交を罪と定めていることは、好むと好まざるとにかかわらず、疑いのない事実である。

 

 

3 同性に性的指向を持つことと、同性間性交という行為をすることは区別されるべきである

 

 同性に性的指向を持つ人が存在する。先天的要因があるとも後天的要因によるとも言われる。ただし、昨年秋の北海道聖書学院での講義でのテモテ・コール師のレポートによれば、性同一性障害が先天的なものであると先頭に立って主張してきたジョンズホプキンス大学医学部は、近年その見解を翻したそうである。

ジェンダー部門の研究をしていたマクヒュー博士は、性同一性障害は、先天的な要素も少しはあるかもしれないが、ほとんどが後天的なものであると主張し、学部長の時、性転換手術やホルモン治療を一切やめた。やってはいけないことと主張した。」また、

「ジョンズホプキンス大学医学部は性転換手術を開発したが、追跡調査により性転換手術者の自殺率が一般の人の20倍ほど高くなっていることが判明し、方針を変えた。」ともレポートされた。

 とはいえ、「先天的な指向であれば、本人にはどうしようもないことなのだから、それはそのまま是とされるべきである。」という論法に、聖書を神のことばであると信じるキリスト者は同意できないだろう。なぜなら、聖書は、人類はアダムにあって堕落したために、全ての人はそれぞれ生まれながらに、何らかの罪への指向を持っていて、それ自体、罪深く残念なことであると教えているからである。たとえば、主イエスは「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27,28)と教えられた。

 さらに、私たちは先天的な罪への指向に加えて、後天的にも罪への指向をもつようになる。偶像崇拝に親しむ文化の家庭や社会に育った元異教徒の中には、回心して後も偶像の宮に親近感を抱いてしまう場合がある。そうした感覚をもっていることは残念ではあるが、その感覚を教会が断罪することはできまいし、すべきではあるまい。しかし、偶像崇拝を実行してしまえば罪であるから、悔い改めが必要である。また、泥棒の家庭に育ち、幼い日から手際よく盗むとほめられて育てられて、盗癖がついてしまった人がいる。そういう盗みへの指向を持っていることは残念だが、盗みを実行しなければ教会は断罪すべきではあるまい。しかし、そういう人が盗みを実際に行えば罪であるから、悔い改めが必要である。

 この堕落した環境の中に生まれて来た我々は、多かれ少なかれ、それぞれに先天的・後天的に何か罪への指向を持っていて、それは残念な現実であり、本人は苦悩せざるをえないが、それを実行しなければ断罪すべきでなく、むしろ、キリストにある赦しと希望を告げるべきである。実行した場合には、悔い改めてキリストに立ち返るように導く必要がある。

 同じように、先天的あるいは後天的に、同性に性的指向を持つ人がいる。その指向があることは残念だが、断罪されるべきではない。むしろ、キリストにある赦しと希望を告げるべきである。しかし、もし同性間性交を実行するならば罪であるから悔い改めを求めることが、その人を神の前に生かすことである。

 

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