苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

カイン・・・自家製礼拝

 「彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。
 主はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」(創世4:2-7)

 

トーラー(モーセ五書)中、初めての礼拝の記事。聖書的礼拝の根本原理が表されている個所です。神はカインのささげ物には目を留めず、アベルのささげ物には目を留めました。それはなぜでしょうか? 両者のささげ物の明白な違いは、カインは大地の実りをささげ、アベルは羊の初子をささげたことにあります。

前章をみれば、彼らの父母が経験した出来事に行きあたります。すなわち、罪に堕ちたアダムと妻が裸の恥を隠すために自作したイチジクの葉に代えて、神が動物の血を流して皮衣を用意してくださったことです(創世3:21)。動物の血を流したことのない夫婦にとって、自分たちの罪が赦されるには、血が流されねばならないと知ったのは衝撃だったことでしょう。「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」(ヘブル9:22)。トーラーの中で言えば、これは後にレビ記において詳述される礼拝の根本原理であり、さらにキリストの代償的贖罪を指さす出来事でした。カインとアベルは、幼い日から父母から血が流されてこそ罪は赦されることを教わって来たと推察されます。それは、カインを責める主のことばも暗示していることです。「主はカインに言われた。『なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。』」(創世記4:6,7)このことばは、カインが自分のしたことが良からぬことであると認識していたことを示しています。

それでは、カインはどうすべきだったのでしょうか。「アベル。神さまに捧げるために、私が丹精した作物とお前が育てた羊の良いものを交換してくれないか。」と言えればよかったのです。しかし、カインは「俺が汗水流して育てたものなのだ。神が受け入れるのは当然ではないか」と言わんばかりに、自分の育てた作物を捧げたのです。カインの罪は、自家製礼拝の罪です。

私たちは、こと礼拝については神の定められたことのみを行うべきであって、人間的工夫・異教的習慣を加えてはいけません。「あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを守り行わなければならない。これにつけ加えたり減らしたりしてはならない。」(申命12:32)。聖なる神が受け入れられるのは、キリストの十字架の血潮を通して神に近づく礼拝なのです。それ以外の人が考えた自家製の礼拝は、「カインのささげ物」なのです。

 

「(キリストは)また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(ヘブル9:12)