1 基本的な態度
(1)神は公正を求めておられる
LGBTQを容認する神学は、いわゆる「解放の神学」の系譜の中に現れた。「解放の神学」の発端は米国資本によって収奪されていた中南米の貧困層の解放運動のため戦った神父たちの主張である。「解放の神学」が国家体制に与(くみ)してきた伝統的神学が見落として来た聖書の視点を新たに提供したことは功績とされるべきであろう。
この「解放の神学」がさまざまな少数者・弱者の解放に適用されることになり、中南米の貧困層のみならず、米国社会で差別されてきた黒人、日本における被差別部落出身者、身体障碍者、女性に適用されてきた。そして、今日LGBTQに適用されている。「解放の神学」が旧来の聖書解釈の誤った点を正したのは事実であり、それは有意義なことである。しかし、だからといって聖書は少数者の行動であれば、みな肯定せよ、受容せよと教えているわけではない。
確かに聖書は、 「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。あなたがたの神、主は神の神、主の主、偉大で力があり、恐ろしい神。えこひいきをせず、賄賂を取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行い、寄留者を愛して、これに食物と衣服を与えられる。あなたがたは寄留者を愛しなさい。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。」(申命記10:16-19)と教えている。それは、多数者はえてして少数者を不当に抑圧しがちだから戒めているのである。また、裁判官は権力や富のある者、多数派に偏ったさばきを行いがちであるから警告を与えているのである。
だが、少数者・弱者ならばなんでもOKだと聖書が教えているわけではない。聖書が言いたいことはさばきは公正でなければならないということである。 さばきは、弱者・強者にかかわらず、身分の高い低いにかかわらず、多数者・少数者にかかわらず、公正であるべきだと聖書は教える。
「裁判では人を偏って見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものだからである。」(申命記1:17)
「不正な裁判をしてはならない。弱い者をひいきしたり強い者にへつらったりしてはならない。あなたの同胞を正しくさばかなければならない。」レビ記19:15
それゆえ私たちは、まず聖書が同性間性交を是としているか非としているか、真理を正しく読み取らなければならない。
(2)愛をもって真理を語る
<主観的事実がすべてであり客観的真理などは存在しない>というのがポストモダン思想である。それが心理学に影響を及ぼし、日本のキリスト教界にはここ40年ほど前から牧会カウンセリングの手法として影響が入って来た。そうした心理療法では傾聴すること、受容することの重要性が非常に強調される。精神的に病んだときに、人は非難されて貝のように心を閉ざしてかたくなになり、正常な判断が出来なくなってしまう。そういう人は傾聴され受容されることによって、冷静になって正常な判断ができるようになることがある。だから、「先生に話を聴いてもらったら、自分のごちゃごちゃになっていた頭の中が整理できました。」ということになる。
だが、理論家というものはなかなか中庸にとどまることができなくて、えてして極論に走るものである。<精神治療のためには、客観的な事実はどうでもよい、本人がどのように感じているか、つまり、主観的事実がすべてである。>というふうに、今風のカウンセリングでは主張されている。
この種のカウンセリングが聖書における愛の理解や牧会に影響を及ぼして、「愛する」とは真理や客観的事実は横に置いて、とにかく「ありのままに受け入れること」「寄り添うこと」であるという考え方が、キリスト教界の中に相当浸透している。たしかに人は受けいれられなければ、心を開かないし、心開かないと神のことばを聴けないから、牧会者にとって相手を受け入れる態度は重要である。しかし、それだけでは聖書的な愛から遠い。
もし目の見えない人が断崖絶壁に向かう道を歩いていたら、「私はあなたのありのままを肯定します。そのまま歩いていけばいいんですよ」と寄り添い続けることがどうして愛だろうか。真理を犠牲にしてただ寄り添うならば、悲惨な結果を招く。主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と、方向転換を求めたまう。神は「愛をもって真理を語る」ことを求めている(エペソ4:15)。
(3)すべての人は罪人であり、主イエスはあらゆる罪を赦すために十字架にかかってくださった
この文章は同性間性交が話題であるので、これについて扱うのであるが、聖書は同性間性交だけを取り立てて罪としているわけではない。たとえばローマ書1章は、偶像崇拝・同性間性交・あらゆる不義・悪・むさぼり。悪意・妬み・殺意・争い・悪だくみ・陰口・そしり・神を憎むこと・高ぶり・親不孝・・・・と悪徳を列挙して、これらはすべて神の前で死罪にあたる罪であると述べている。さらに、ローマ書3章10節は「義人はいない一人もいない」と断じ、その上で、キリストの贖罪を説いている。
キリスト者というのは、何も罪を犯さない立派な人のことではない。キリスト者とは自らが神の前に罪があると認め、イエスを救い主と信じ、罪赦された罪人のことである。どんな罪を抱えている者であっても、イエス・キリストを信じれば、神の前に赦しを受けられ、さらに、神の子どもとされて特別な愛の対象とされる。そして聖霊を与えられて生涯をかけて、つまずいたり立ち直ったりしながら徐々にキリストの似姿に変えられていき、主に再びお目にかかる日には、完全に罪から解放されると約束をいただいている。その約束が成就するまでは、どんなキリスト者も己のからだに沁みついた、それぞれの罪の性質(聖書用語では「肉」という)と戦い、霊と肉の葛藤をおぼえ日々悔い改めながら希望をもって生きて行くものなのである。十字架で傍らにいた死刑囚にパラダイスの約束を与えたイエス・キリストは罪人の友である。だから、どんな罪を抱えた人であったとしても、神の前にそれが罪だと認めてイエス・キリストにあるゆるしを乞うならば、罪赦されて神の子とされて、新しい人生を歩むことが許されているのである。
だが、もし神が罪と言われることを罪と認めないならば、赦されようがない。アダム以来の罪を抱えた私たちは生まれながらには、何が罪であるかさえ認識することができない。だから、聖書に啓示された神の基準が何であるかを知って受け入れる必要がある。聖書は同性間性交について、何と教えているだろうか?
2 同性間性交に関する聖句
(1)創世記における、神が定めた結婚の秩序
創世記1:28
「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。』」
創世記2:24
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
この聖書箇所は、創造つまり堕落前の正常な状態において、神は、性交は夫婦(男女)の間で行なわれるものとして定めたことを教えている。男女の性交でなかったならば、生むことも増えることもありえなかった。
この箇所について、過去に起きたことをただ記述した個所ではって、規範を述べた箇所ではないというのはナンセンスである。新約聖書において、主イエスもパウロも、創世記1章2章の創造における結婚の記事を引いて、結婚のあり方を論じるときの規範として用いているからである。そういう聖書の規範性を否定するのは無理である。
(2)旧約における同性間性交の禁止
レビ記18:6-25の特に22節
「6だれも、自分の肉親の者に近づき、相手の裸をあらわにして交わってはならない。わたしは主である。・・・(以下18節までもろもろの近親相姦リスト。19は月経中の女性に触れることの禁止)・・・
20また、自分の同胞の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない。
21また、自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない。あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
22あなたは、女と寝るように男と寝てはならない。それは忌み嫌うべきことである。
23動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も、動物の前に立って、これと交わってはならない。それは道ならぬことである。
24あなたがたは、これらの何によっても身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている異邦の民は、これらのすべてのことによって汚れていて、
25その地も汚れている。それで、わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。」
カナンの住民たちが滅ぼされた理由となった諸々の習俗(近親相姦・姦通つまり異常な異性間性交・月経中の性交・モレク神への子ども奉献・獣姦)と並んで、同性間性交が禁じられている。同じような文脈で、レビ記20:13も同性間性交が禁じられている。読者は自分で文脈を吟味されたい。
「男がもし女と寝るように男と寝たなら 、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」(レビ記20:13)
レビ記の律法は必ずしも新約の時代には適用されないから、同性間性交は問題ないという主張がある。だが、上記のような性にまつわる姦通・獣姦などの罪のリストの中の一つに同性間性交があることを見れば、その主張が間違っていることは明白である。同性間性交を是としたいがために、これは神殿男娼との性交のみを禁じているのであって、一般に同性間性交を禁じているのではないというのは無理があるだろう。
(3)新約における諸々の罪のリストの中の同性間性交
使徒パウロは、神の国を相続できない諸々の罪のリストの中に、男色をする者を挙げている。
「あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者(アルセノコイタイ)、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(1コリント6:9、10、11)
「すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。」(1テモテ1:9,10)
LGBTQを容認する人々は上記のアンダーラインのことば「男色をする者」と訳された「アルセノコイタイ」は男性売春、性的虐待を限定的に指しているのであって、同性間性交を一般に罪としているわけではないと主張する。だが、この主張は間違っている。理由は以下の通り。
第一に、紀元1世紀のユダヤ人ヨセフスによれば、当時、男性同士の性行為は禁止されていた。
第二に、当時、男性売春、性的虐待を意味することばとしては、普通にはパイデラスタイ、パイドマナイ、パイといったことばが用いられていた。もしパウロが男性売春、性的虐待を意味したかったならこれらの語を使ったはずである(Robert Garnon,The Bible and homosexual Practiceを参照)。 しかし、パウロはこれらのことばを使わず、わざわざ「アルセノコイタイ」という語を使った。アルセーは男性を意味し、コイテーはベッドを意味する。「アルセノコイタイ」は、パウロはレビ記20章13節の70人訳ギリシャ語聖書のことばから造語したのである。
「男がもし女と寝るように男と寝たなら 、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」(レビ記20:13)
καὶ ὃς ἂν κοιμηθῇ μετὰ ἄρσενος κοίτην γυναικός, βδέλυγμα ἐποίησαν ἀμφότεροι· θανατούσθωσαν, ἔνοχοί εἰσιν.(70人訳)
パウロがわざわざ当時のギリシャ文化圏の人に耳慣れないアルセノコイタイという語を用いたのは、事柄を男性売春、性的虐待に限定せず、レビ記を背景として「男と寝る者」「男色」という広い意味で使うためである。レビ記の戒めを背景として、同性間性交は、偶像崇拝、姦淫、不品行、泥棒、不敬虔、親殺し、誘拐、偽証、酒におぼれることといったもろもろの罪と同列にされる罪であるとパウロは教えている。
1コリント6:10-11から私たちが学ぶべきことは2つある。
第一は、同性間性交という行為は神の前に罪であるということである。同性間性交という行為は、偶像礼拝、姦淫、窃盗といったことが単なる嗜好の問題であると片付けられないのと同様に、単なる嗜好として片付けてはならない。
しかし、第二に注意すべきことは、同性間性交という罪は、偶像礼拝、淫行、姦淫(つまり則を越えた異性間性交)、窃盗、略奪、泥酔その他のコリントの住民の習俗のうちに見られたもろもろの罪の一つとして扱われているということである。不道徳な町コリントの人々の中から救い出された者として、これらの罪に逆戻りしてはならないと警告しているが、これらの罪を再び一度でも犯したら悔い改めの余地なく地獄行きだなどと教えているのではない。文脈をたどれば、パウロは前の5章で罪と戒規の問題を扱っている。戒規は本人の悔い改めと救い(1コリント5:5)、教会全体への罪の感染防止のためになされる(1コリント5:6)。しかし、もし同性間性交の罪を罪と認めて悔い改めず、常態的に罪に溺れる生活をしているならば、その人は神の国を相続できないと警告しているのである。だから続いて、もしキリストを信じる者となったのに、これらの罪に陥ってしまったときには、戒規を受けて悔い改めて主に立ち返れと勧めているのである。
「あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(1コリント6:11)
とある通りである。だから、同性間性交は罪に当たらないと教えることは誤りであり、危険なことである。それは偶像礼拝も窃盗も姦淫も殺人も罪に当たらないと教えることと同じ程度に危険なことである。罪を罪として教えないことは、毒薬の瓶に貼られた「これは毒薬である」というシールを剥ぎ取るようなことである。
(4)断罪される同性間性交
レビ記と1コリント、1テモテでは男色が取り上げられて罪とされるが、ローマ書では、偶像礼拝の罪の後に、女性の同性間性交が「自然に反するもの」つまり神の創造の秩序に反するものとして挙げられ、その後に、もろもろの罪のリストが掲げられている。
「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。」(ローマ1:26,27)
大きな文脈を無視して「自然に反するもの」ということばだけを切り取って、「本人にとって同性間性交が自然な場合には罪に当たらないのだ」と論じる者もいる。つまり本人の性的指向が同性に向いていることが「自然」である場合は、罪に当たらないというのである。そして、同性愛的指向を持つ女性が男性と結婚したり、その逆をすることが、むしろ自然に反することであるとまで主張する。
だが、これはローマ書1章から3章にいたる大きな文脈を無視した解釈である。パウロはローマ書1章後半で異邦人の罪をリストアップし、2章でユダヤ人の偽善の罪を述べ、結論として「ユダヤ人もギリシャ人もすべての人が罪の下にある」と述べて、キリストの贖罪によるほか救いの道はないと述べている。パウロは、その流れの中の異邦人の罪の中の一つとして同性間性交を罪として取り上げているのであて、ここで同性間性交を正当であるという主張をしようと意図しているわけではない。
以上のように、聖書が同性間性交を罪と定めていることは、疑いようのない事実なのである。もし「旧新約聖書66巻は誤りのない神のことばであり、信仰と生活の唯一絶対の基準である」という信仰告白に立つならば、同性間性交は罪ではないというわけには行かない。「聖書は誤りのない神のことばである」という信仰はナンセンスであるという人々が、同性間性交は罪ではないというならば筋が通っているが、「聖書は誤りのない神のことばである」と言いつつ「旧来の同性間性交を罪とする聖書解釈は間違っていた。聖書は同性間性交を容認している。」という主張をするのは無理である。
4 同性に性的指向を持つことと、同性間性交という行為をすることは区別されるべきである
同性に性的指向を持つ人々は一定数存在する。「ためにする」アンケートが多いので、その結果はばらつきがあって実態はよくわからないにしても一定数存在することは事実である。原因については、先天的要因があるとも後天的要因によるとも言われる。ただし、性同一性障害が先天的なものであると先頭に立って主張してきたジョンズホプキンス大学医学部は、近年その見解を翻した。
「ジェンダー部門の研究をしていたマクヒュー博士は、性同一性障害は、先天的な要素も少しはあるかもしれないが、ほとんどが後天的なものであると主張し、学部長の時、性転換手術やホルモン治療を一切やめた。やってはいけないことと主張した。」
また、
「ジョンズホプキンス大学医学部は性転換手術を開発したが、追跡調査により性転換手術者の自殺率が一般の人の20倍ほど高くなっていることが判明し、方針を変えた。」
ともテモテ・コール師はレポートされた。
「先天的な指向であれば、本人にはどうしようもないことなのだから、それはそのまま是とされるべきである。ありのままでよい。」という主張がある。しかし、聖書を神のことばであると信じるキリスト者は同意できないだろう。なぜなら、聖書は、人類はアダムにあって堕落したために、全ての人はそれぞれ生まれながらに、同性への性的指向にかぎらず何らかの罪への指向を持っていて、それ自体、罪深く残念なことであると教えているからである。主イエスは「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27,28)と教えられた。堕落後の男性のほとんどは情欲を抱いて妻以外の女性を見てしまうという先天的な堕落した傾向性を持っていることを知っていて、主イエスは、それをありのままでよいとはおっしゃらず、それは神の前で罪なのだとおっしゃった。
私たちは先天的な罪への指向に加えて、後天的にも罪への指向をもつようになる。偶像崇拝に親しむ文化の家庭や社会に育った元異教徒の中には、回心して後も偶像の宮に親近感を抱いてしまう場合がある。そうした感覚をもっていることは神の前には罪なのだが、教会はその感覚を断罪することはできないし、すべきでもない。しかし、偶像崇拝を実行してしまえば罪であるから、悔い改めが必要である。また、泥棒の家庭に育ち、幼い日から手際よく盗むとほめられて育てられて、盗癖がついてしまった人の告白を読んだことがある。そういう盗みへの指向を持っていることは神の前では罪なのだが、教会は盗みを実行しなければ断罪することはできないし、すべきでもない。しかし、そういう人が盗みを実際に行えば罪であるから、悔い改めが必要である。
アダム以来の原罪を受け継ぎ、かつ、この堕落した環境の中に生まれて来た我々は、同性に性的指向を抱くことに限らず、多かれ少なかれそれぞれに先天的・後天的に何か罪深い行為への指向を持っていて、それは残念な現実であり、キリスト者であればその罪に苦悩し抵抗し悔い改めつつ生きている。教会は、それを実行しなければ断罪すべきでなく、むしろ、キリストにある赦しと希望を告げ励ますべきである。しかし、実行した場合には、悔い改めてキリストに立ち返るように導く必要がある。
私たちは1コリント6:10,11に列挙される、偶像崇拝、姦淫、不品行、泥棒、同性間性交、不敬虔、親殺し、誘拐、偽証、泥酔といった神の国を相続できなくさせるもろもろの罪に陥りやすい傾向性を、多かれ少なかれ、先天的あるいは後天的に持ってしまっている。教会は、そういう傾向性があることをさばくべきでなく、そういう罪を犯さないように戒め励まし導くべきである。万が一、そうした罪を実行してしまったならば、悔い改めを促し、回復のために祈るべきである。先天的あるいは後天的に、同性に性的指向を持っていることを教会は断罪すべきではなく、同性間性交という罪を犯さないように戒め導くべきである。だがもし同性間性交を実行するならば、悔い改めを促し、回復のために祈るべきである。キリストにあって義と認められたとはいえ、今は聖化の途上にある私たちは一人として完璧に罪性から解放された者はいないのだから、ともに日々罪を悔い改めつつ、御国の到来を待ち望みつつ生きて行くほかない。
終りに
LGBTQを認めることは時代のトレンドであり、それを認めない米国の教会はひどい目にあっているということを聞く。日本でも近々そのような社会情勢になるだろう。この時代にあって、改めて私たちは次のことばに目を留めたい。
「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」ローマ12:1,2