苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

福音と律法・・・・「ジェンダーを理解する」メモ1

 北海道聖書学院ではテモテ・コール先生を迎えて「ジェンダーを理解する」というテーマで非常に有益な研修をしました。第一回講演は「ジェンダーと聖書神学」、第二回は「ジェンダーと世界観」、第三回は「ジェンダーと精神医療」でした。

 第一回講演は正確な聖書釈義が教えられ、第二回は近年の世界のジェンダーをめぐる急速な動きの背景にはコロンビア大学教育学部のネオマルクス主義フロイト思想を背景とするフランクフルト学派の世界戦略があること、その原理は「すべての人は平等でなければならない。差別は最大の罪だ。」であること。そして第三回はご自身の痛みを伴う経験と豊かな牧会事例を踏まえながら精神医療について語られました。

 この問題に関しては、多くの人は、真理を犠牲にして恵みを語るか、真理を強調して恵みを見失いがちなものですが、テモテ・コール先生は恵みと真理の両方をしっかりと生き、語られていました。 私は事前に内容をうかがったわけではありませんが、私が開会礼拝で説き明かしたみことばマタイ5:17-20と調和していました。

 

マタイ5:17-20

 LGBTをめぐって、結局、私たちの聖書信仰がいかなるものなのかが問われています。それは福音と律法をどのように信じ生きているかが問われているということです。ご講演をいただく前に、主イエスが聖書に対してどういう態度をとられたかということをみことばに確認したいと思います。

 

1 律法と預言者

  ガリラヤのカペナウムにおける「悔い改めて福音を信ぜよ」という宣言に始まる、主イエスの大胆な言動を見て、敵対者たちも、あるいはイエス様の弟子たちの中にも、「イエスは、律法と預言者つまり旧約聖書を廃棄してしまうつもりなのではないか?」と誤解していた人々がいたようです。そこで、この山上の説教で、17節「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」と主イエスはおっしゃいました。

エス様の大胆な振舞いというのは、たとえば、イエス様は安息日に礼拝を終えると、すぐにそこにいた肩手のなえた兄弟の手をまっすぐにしてやったというようなことです。律法学者たちに言わせれば、病人を癒すという行為は彼らが解釈するところの、安息日に禁じられている「仕事」であるから、イエス安息日律法を破棄しようとしている、いや律法全体を廃棄しようとしていると解釈したわけです。

 弟子たちの中にも、イエス様が旧約聖書を廃棄しようとなさっているのだと誤解するむきがありました。ですから、イエス様はそういう誤解をしないようにと、この山上の垂訓で神の子どもの生き方について述べてゆくまえに、律法と預言者旧約聖書をどのようにとらえるべきなのかについて話をされました。

 

2 イエス様が律法を成就する方法

 「5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」

 イエス様は預言者と律法を成就するために来たとおっしゃいます。それはどのようにしてでしょうか?預言の成就とは、預言者ミカの語ったとおりイエス様の誕生がベツレヘムであったり、預言者イザヤが言ったとおり処女からの誕生であったり、最後には受難なさることによって成就したということはわかります。

 では、さまざまな律法がイエス様にあって成就されるとはどういうことでしょうか。成就するとは、πληρόω満たすということです。律法の要求が満たされるには、二つの道があります。ひとつは、その律法が命じていることを実行することです。「殺すなかれ」という命令に対して、「殺さない」という応答をするとき、律法の要求は満たされます。「あなたは自分のために偶像を作ってはならない」という律法の要求に対して、偶像をつくらないという応答によって、律法は満たされることになります。これがひとつ。

 ですが、神様は人間が律法の要求を完全には守ることができないことをご存知でしたから、律法を破ってしまった場合のために、神様はもう一種類の律法を与えていました。それはいけにえに関する律法であって、律法を破ってしまった場合に定められたいけにえをささげて償いをするというものでした。償いをすることによって、律法の要求を満たしたのです。これはキリストの十字架の影でした。

 イエス様は、神を愛し隣人を愛して律法の要求を満たし、十字架においてまことの小羊のいけにえとして御自分を犠牲とされて、私たちが律法にそむいて犯した罪の償いをしてくださいました。そして、天にもどられて天から信じる私たちに聖霊を注いで、神様のみこころを行なう力をくださるのです。このようにして、イエス様は律法を成就なさるのです。ここに福音があります。

 

3 律法の受け止め方に関する二つの間違い

 ところで、律法の受け止め方については二つの間違った態度があります。それは律法主義と無律法主義です。律法主義は福音の端的な否定です。LGBTをめぐって、ある人々は、LGBTなどとんでもないと最初から警戒感をあらわにして、教会にそういう人々が入ってこないようにします。しかし、主イエスは一体だれのためこられたのでしょうか。主は義人を招くためにでなく、罪人を招くために来られたのです。もしLGBTが罪であるとすれば、その人々を招くためにも主は来られました。私たちはかりにLGBTでなかったとしても、自分自身も偶像崇拝や姦淫や高慢や盗みや偽証や殺人などさまざまな罪を犯してきた者であり、罪人をゆるす福音によって救われた者であることを忘れないように肝に銘じたいものです。私たちが福音派を名乗りながら、LGBTの人々に救いはないという態度をとるならば、それは看板倒れです。

 律法の受け止め方についての第二の間違いは、無律法主義です。自分は恵みによって救われた。だから律法などは要らないのだとして、律法に反して、好き勝手な振る舞いをしても大丈夫だという考えるのです。そういう傾きのある聖書学者は、同性間性交渉を禁じる聖書テクストは、その時代にその文化の中で特定の状況に関してのみ有効であり、普遍的に有効ではないと主張します。今は多様性の時代であるから、それにあわせて教会は、キリストを信じて後も同性間の性交渉を否定してはならないとするのです。しかし、イエス様はおっしゃいました。

「5:19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」

 

 私たちキリスト者の義

 では、正しい律法の受け止め方とはなんでしょうか。それは、キリストがわたしのために十字架にかかってよみがえり、わたしの罪はすでに償われ赦されてしまった。だから、律法や呪いに対する恐怖からではなく、キリストにおいて現れた神の愛に感動して、御霊によって神様への愛の喜ばしい応答として律法を重んじて、神の子どもとしてキリストの姿を目指して成長していくことです。

5:20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。

 キリスト者の義は、律法学者・パリサイ人の義よりも勝っています。それは、第一に律法を守りえなかったことにかんする償いはイエス様があの十字架の贖いと復活によって、すでに完了しているからです。

 キリスト者の義が律法学者たちの義にまさっている第二の理由は、私たちは律法ののろいに対する恐怖からいやいやこれを行なうのではなく、御霊によって神様を愛する、愛の自発性をもって神様の律法を行ない、律法の要求を十二分に満たすように成長していくからです。私たちはみなそれぞれが、神様にイエス様の贖いのゆえに、それぞれの罪を赦されたことを感謝しながら、キリストの姿を目指して、ともに一歩一歩進んで行きたいものです。