苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書は同性間性交について何を教えているか・・・「ジェンダーを理解する」メモ4

 ジェンダーについて「科学的に云々」ということがNHKなどで宣伝されるのだが、そもそも自然科学は本質的に相対的真理しか提供するものではない。10年前科学的に真理だと言われたことが、今日では科学的に非真理であることは、いくらでもある。たとえば数年前まで科学者が先天的なLGBT因子があると主張していたが、今日、この問題の最先端の米国の学会では先天的ではないとされている。

 科学的な知見も必要であるが、「旧新約聖書66巻は誤りのない神のことばである」と信じるキリスト者にとっては聖書はジェンダーについてなんと教えているかがもっとも大切なことである。もし聖書が同性間性交を容認しているのであれば、キリスト者は自分が同性間性交について抵抗を感じたとしても受け入れるべきであるし、逆にもし聖書が同性間性交を禁じているのだとすれば、自分はさして問題だと感じないとしても、聖書にしたがってそれは禁じられた行為であると受け止めなければならない。  

●創世記1:27:28・・男女の創造と結婚と子孫をふやすこと  

「27**,神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。28**,神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

 神は人間を男女として造り、子孫を増やそうとされた。人間の性的交渉は子を産むことを主要な目的としている。聖書には同性同士の結婚について教えるところは一つもない。

レビ記18:6-25(特に22節)

「6だれも、自分の肉親の者に近づき、相手の裸をあらわにして交わってはならない。わたしは主である。・・・(以下もろもろの近親相姦リスト中略)・・・

20また、自分の同胞の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない。

21また、自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない。あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。

22あなたは、女と寝るように男と寝てはならない。それは忌み嫌うべきことである。

23動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も、動物の前に立って、これと交わってはならない。それは道ならぬことである。

24あなたがたは、これらの何によっても身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている異邦の民は、これらのすべてのことによって汚れていて、

25その地も汚れている。それで、わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。」

  カナンの住民たちが滅ぼされた理由となった諸々の習俗(近親相姦・姦通・月経中性交・モレク神への子ども奉献・獣姦)と並んで、同性間性交が禁じられている。

 同じような文脈で、レビ記20:13も同性間性交が禁じられている。

「男がもし女と寝るように男と寝たなら 、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」(レビ記20:13)

 ゲイ神学では当時の家父長制において限られた戒めであると苦しい議論をしているが、旧約聖書が同性間性交を罪としていることは明白である。では、新約聖書はどうだろうか?

●新約においても、男色はもろもろの罪のリストの中にある。

1コリント6:9、10

「あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼(マラコイ)となる者、男色をする者(アルセノコイタイ)、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。」

1テモテ1:9,10

「すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな者、男色をする者(アルセノコイタイ)、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。」

 ゲイ神学は、上記のアンダーラインのことばは男性売春、性的虐待を限定的に指しているのであって、同性間性交を一般に罪としているわけではないと主張する。紀元1世紀のユダヤ人ヨセフスによれば、当時、男性同士の性行為は禁止されていた。男性売春、性的虐待を意味することばとしては、当時、パイデラスタイ、パイドマナイ、パイといったことばがあったから、パウロが男性売春、性的虐待を意味したかったならこれらの語を使ったはずである。(当時の言語の詳細な研究については、Robert Garnon,The Bible and homosexual Practiceを参照) しかし、パウロはこれらのことばを使わず、アルセノコイタイという語を使った。なぜか。このことばは、パウロは上のレビ記20章13節の70人訳ギリシャ語聖書のことばから造語してたものである。καὶ ὃς ἂν κοιμηθῇ μετὰ ἄρσενος κοίτην γυναικός, βδέλυγμα ἐποίησαν ἀμφότεροι· θανατούσθωσαν, ἔνοχοί εἰσιν.  パウロがこの語を用いたのは、男性売春、性的虐待に限定せず、レビ記を背景として「男と寝る者」「男色」という広い意味で使うためである。男色は、偶像崇拝、姦淫、不品行、泥棒、不敬虔、親殺し、誘拐、偽証、酒におぼれることといったもろもろの罪と同列にされる罪である。新約聖書もまた同性間性交を罪としている。
 (ただし、これら諸々の罪の中の一つとして扱われているのだから、同性間性交のみが、悔い改めてキリストにあって赦されない罪ではないことも事実である。)

●「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。」(ローマ1:26,27)

  レビ記と1コリント、1テモテでは男色が取り上げられて罪とされるが、ローマ書では女性の同性間性交も罪とされている。ローマ書の文脈からしても、この箇所が同性間性交を罪と断じていることは明白である。すなわち、ローマ書は1章18節から32節で異邦人の罪、2章1節から8節でユダヤ人の罪を論じて、異邦人もユダヤ人もすべての人が罪の下にあるとし、「義人はいない一人もいない」と結論づけているのである。ゆえに、上掲のローマ1章26,27節が同性間性交を罪と断じていないという解釈は、まったく文脈をわきまえない誤読である。

 以上のように、旧新約聖書が同性間性交という行為を罪と定めていることは明白である。

 

<その他>

●主イエスは同性間性交について何も教えていないから、これについて問題にする必要はないというゲイ神学の主張がある。しかし、沈黙からの推論は無効であることは常識中の常識である。イエスが禁止されなかった罪は他にもいくらでもある。主イエスが近親相姦、幼児虐待、獣姦などに言及されなかったから、これらは問題にする必要がないなどという人はいないだろう。