1 同性間性交に関する聖句
(1)創世記における、神が定めた結婚の秩序
創世記1:28
「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。』」
創世記2:24
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
創世記1章、2章は、同性間性交を明確に禁止している箇所ではない。しかし、創造つまり堕落前の正常な状態において、神は、性交は夫婦(男女)の間で行なわれるものとして定めたことを教えていることは確かである。男女の性交でなかったならば、生むことも増えることもありえなかった。
(2)旧約における同性間性交の禁止
レビ記18:6-25の特に22節
「6だれも、自分の肉親の者に近づき、相手の裸をあらわにして交わってはならない。わたしは主である。・・・(以下もろもろの近親相姦リスト中略)・・・
20また、自分の同胞の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない。
21また、自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない。あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
22あなたは、女と寝るように男と寝てはならない。それは忌み嫌うべきことである。
23動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も、動物の前に立って、これと交わってはならない。それは道ならぬことである。
24あなたがたは、これらの何によっても身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている異邦の民は、これらのすべてのことによって汚れていて、
25その地も汚れている。それで、わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。」
カナンの住民たちが滅ぼされた理由となった諸々の習俗(近親相姦・姦通つまり異常な異性間性交・月経中の性交・モレク神への子ども奉献・獣姦)と並んで、同性間性交が禁じられている。同じような文脈で、レビ記20:13も同性間性交が禁じられている。読者は自分で文脈を吟味されたい。「男がもし女と寝るように男と寝たなら 、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」(レビ記20:13)
レビ記の律法は必ずしも新約の時代には適用されないから、同性間性交は問題ないと主張する人は、ここに列挙された諸々の行いは新約時代のキリスト者には許されているというのだろうか。あり得ないだろう。
(3)新約における諸々の罪のリストの中の同性間性交
使徒パウロは、神の国を相続できない諸々の罪のリストの中に、男色をする者を挙げている。
「あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者(avrsenokoi/tai)、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(1コリント6:9、10、11)
「すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。」(1テモテ1:9,10)
ちなみに、パウロは上のレビ記18章と20章の70人訳ギリシャ語聖書のことばから男色をする者と造語したようである。
1コリント6:10-11が教えていることは2つある。第一は、同性間性交という行為は神の前にまぎれもなく罪であるということである。同性間性交という行為は、偶像礼拝、姦淫、窃盗といったことが単なる嗜好として片付けられないのと同様に、単なる嗜好として片付けてはならない。
しかし、第二に注目すべきことは、同性間性交という罪は、文脈上、偶像礼拝、淫行、姦淫(つまり則を越えた異性間性交)、窃盗、略奪、泥酔その他のコリントの住民の習俗のうちに見られたもろもろの罪の一つであって、それだけが特別に罪だとしては扱われていないということである。不道徳な町コリントの人々の中から救い出された者として、これらの罪に逆戻りしてはならないと警告しているが、これらの罪を再び一度でも犯したら悔い改めの余地なく地獄行きだなどと教えているのではない。パウロは前の5章で罪と戒規の問題を扱っている。戒規は本人の悔い改めと救い(5:5)、教会全体への罪の感染防止のためになされる(5:6)。しかし、もし罪を罪と認めて悔い改めず、常態的に罪に溺れる生活をしているならば、その人は神の国を相続できないと警告しているのである。もしキリストを信じる者となったのに、たまさかこれらの罪に陥ってしまったときには、戒規を受けて悔い改めて主に立ち返れと勧めているのである。
だから、同性間性交は罪に当たらないと教えることは、危険なことである。それは偶像礼拝も窃盗も姦淫も罪に当たらないと教えることを意味する。それは毒を毒であると教えないほどに危険なことである。
(4)断罪される同性間性交
レビ記と1コリント、1テモテでは男色が取り上げられて罪とされるが、ローマ書では、偶像礼拝の罪の後に、女性の同性間性交が挙げられ、その後に、もろもろの罪のリストが掲げられている。
「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。」(ローマ1:26,27)
以上のように、聖書は同性間性交を罪と定めている。
2 同性に性的指向を持つことと、同性間性交をすることは区別されるべきである
同性に性的指向を持つ人がいる。先天的要因があるとも後天的要因によるとも言われる。ただし、テモテ・コール師のレポートによれば、性同一性障害が先天的なものであるとしてきたジョンズホプキンス大学医学部は、近年その見解を翻したそうである。「ジェンダー部門の研究をしていたマクヒュー博士は、性同一性障害は、先天的な要素も少しはあるかもしれないが、ほとんどが後天的なものであると主張し、学部長の時、性転換手術やホルモン治療を一切やめた。やってはいけないことと主張した。」また、「ジョンズホプキンス大学医学部は性転換手術を開発したが、追跡調査により性転換手術者の自殺率が一般の人の20倍ほど高くなっていることが判明し、方針を変えた。」ともレポートされた。
とはいえ、先天的な指向があるとするならば、「先天的な指向であれば、本人にはどうしようもないことなのだから、それはそのまま是とされるべきである。」という議論がある。だが、これは聖書信仰に立つわれわれにおいては成り立たないだろう。なぜなら、聖書は、人類はアダムにあって堕落したために、全ての人はそれぞれ生まれながらに、何らかの罪への指向を持っていて、それ自体、罪深く残念なことであると教えているからである。
さらに、私たちは先天的な罪への指向に加えて、後天的にも、罪への指向をもつようになる。偶像崇拝に親しむ文化の家庭や社会に育った元異教徒の中には、回心して後も偶像の宮に親近感を抱いてしまう場合がある。そうした感覚をもっていることは残念ではあるが、その感覚を教会が断罪することはできまいし、すべきではあるまい。しかし、偶像崇拝を実行してしまえば罪であるから、悔い改めが必要である。また、スリの家庭に育ち、幼い日から手際よく盗むとほめられて育てられて、盗癖がついてしまった人がいる。そういう盗みへの指向を持っていることは残念だが、盗みを実行しなければ教会は断罪すべきではあるまい。しかし、そういう人が盗みを実際に行えば罪であるから、悔い改めが必要である。
この堕落した環境の中に生まれて来た我々は、多かれ少なかれ、それぞれに先天的・後天的に何か罪への指向を持っていて、それは残念な現実であり、本人は苦悩せざるをえないが、それを実行しなければ断罪すべきでなく、むしろ、キリストにある赦しと希望を告げるべきである。実行した場合には、悔い改めてキリストに立ち返るように導く必要がある。
同じように、先天的あるいは後天的に、同性に性的指向を持つ人がいる。その指向があることは残念だが、断罪されるべきではない。むしろ、キリストにある赦しと希望を告げるべきである。しかし、もし同性間性交を実行するならば罪であるから悔い改めを求めることが、その人を神の前に生かすことである。