苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

十字架と復活!

魔除け?

 「十字架って、何の道具なのかわかりますか?」と聞いたら、ある人は。「・・・魔除けですか?」と答えました。「それはドラキュラ映画の影響ですか。確かにドラキュラに十字架を近づけるとギャアとか言って逃げ回りますが・・ハズレです。」

 十字架というと、首から下げるペンダントとしてシンプルで清楚なデザインが良いからでしょうか、定番のものとなっています。でも十字架は、古代ローマ帝国の時代に用いられた残忍な死刑の道具でした。今の日本で言えば絞首刑の縄、アメリカで言えば電気椅子、昔のフランスでいえばギロチンにあたるもの、それがもともとの十字架です。恐ろしく忌まわしいものです。しかし、その恐ろしく忌まわしいものが紀元三十年四月、すばらしい神の愛のシンボルに変わりました。何があったのでしょう?

 

家出息子みたいに 

 神とは万物の造り主です。造り主である神は、ご自分の作品である人間ひとりひとりのことを心に留めていらっしゃいます。あなたのことも目にとめていてくださいます。けれども、多くの人は「確かに宇宙の運行を可能にしている自然法則を見ても、人間のからだの仕組みの精巧なありさまを見ても、これが偶然とは思えない。これらを造ったお方をもし『神』と呼ぶならば、『神』は存在するんだろうね。でも、その『神』が全宇宙から見たらゴマ粒ほどの地球上に生きている私に心をとめているというのは、なんだかよくわからない。実感がわかない。」というのです。

 なるほど、その通りです。神は人間を造ってくださったけれども、人間はこの神と絶交してしまったのだと聖書は教えています。ちょうど親の監督を嫌って家を飛び出した家出息子が、家に電話をすることもできないでいるように、神と人との間には断絶があるので、人は神の愛を実感できなくなっています。

 神と人との断絶には二つの側面があります。一つは、神は無限の存在であり、人はちっぽけで有限な存在であるということです。神は全知全能ですが、人間は有限な知識しか持ってないし、その能力もかぎられています。「あなたの指のわざであるあなたの天あなたが整えられた月や星を見るに人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」と旧約聖書の詩人は歌っています。

神と人との断絶のもう一つの面は、神は無限にきよくて正しいお方であるのに対して、私たち人間は汚れていて、その心で、その舌で、その手で神には喜ばれないことをしてしまっているということです。三時になるとお母さんといっしょに楽しくおやつを食べる三歳児が、その日にかぎってお母さんの顔を見ようとせず「ぼくはおやついらない」と言っていたら、その子はきっと、何か叱られるような悪いことをしたのでしょう。私たちは、神様に顔向けできない罪を抱えています。

 イエス・キリストは、この神と私たちを隔てている、存在における断絶と、罪による断絶を解消してくださいました。

 

無限と有限の断絶に架け橋(受肉

 永遠の昔、この世界が存在する前から神の御子イエスは父なる神と愛のまじわりを持っていました。御子イエスは、父のご計画にしたがって、無から万物を創造したのです。特に人間は御子をモデルとして造られました。そして、神を愛し隣人を愛し世界を神の王国とすることが期待されていました。愛は自由意志のあるところに成り立つものなので、人間はロボットではなく自由意志ある存在として造られました。けれども人間は、その自由意志を悪用して、神に感謝も礼拝もせず、自分勝手に石や木を刻んで、それを神として拝んだり、また人間同士もたがいに嘘をついたり、憎んだり、ねたんだり、裏切ったり、盗んだり、恨んだり、殺意を抱いたり、汚らわしい情欲にふけったりして、日々、最後の審判に向けて罪に罪を重ねて歩んでいます。しかし、聖書は「人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」と告げているのです。

 そこで二千年前、父なる神は御子イエスをこの世界に遣わされました。御子イエスは神でありながら、人としての性質をもって生まれました。このようにして、神の御子イエスが人となって、無限な神と有限な人との存在における断絶の橋渡しとなってくださったのです。「神はまどろむことも眠ることもない」と聖書には書かれていますが、イエス様はその伝道生活で疲れ果てて、ガリラヤ湖に浮かんだ舟のともに枕してぐっすりと眠っておられたと、福音書には書かれています。またイエス様はのどが渇くこともあれば、お腹がペコペコになることもありました。愛する友が死んで涙を流されたこともありますし、激痛に苦しまれたこともあります。

 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」(へブル4・15)

 ですから、私たちはお腹がすいたときも、どうしようもなく悲しい時、寂しいときも、お腹が痛いときも、不安なときも、「助けてください」とお祈りし、聞いていただくことができます。神は、御子イエスにあって、私たちに近いお方となってくださったからです。

 

罪による断絶の架け橋(十字架)

 もうひとつの神と私たちとの断絶は、罪による断絶です。神は聖にして義なるお方です。罪から来る報酬は死です。「罪」とはなにか?

 罪とは、第一に真の神を愛さないことです。創造主である神を礼拝せず、被造物にすぎない鳥や獣や死者や生きている人と神のように拝むこと、また、神の存在を否定して、人間は自力て生きられるのだと思い上がっていることです。

 罪とは第二に、隣人を自分自身のように愛さないことです。聖書のいう罪のリストは次のようなものです。「彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。また彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。」さらに聖書は「ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。」と続けます。つまり、「私はこんな罪のリストに上げられている汚れたことなどやっていないよ。」と威張っているあなたは、心の中までご覧の神から見たら偽善にすぎないというのです。

 神は聖なるお方であり義なる審判者でいらっしゃるので、罪を抱えたままでは、神との交わりに入ることはできません。天国に入ることはできないのです。神と人との間には、罪による断絶があります。この神と人間とを隔てている罪の問題を解決するために、神の御子イエス・キリストが十字架にかかってくださいました。他人の罪を背負って救う人は罪なき人でなければなりません。ところが、人間には例外なく罪があります。「義人はいない一人もいない」のです。そこで、聖なる神の御子が人となって、二千年前この地上に来てくださり、完全な愛の生涯の後に、十字架にかかって私たちの罪に対する呪いをその身にひき受けてくださったのです。

「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(2コリント5’21)とある通りです。

 父なる神は正義の審判者として、罪を見過ごしにはできず、罪に対しては罰を与えねばなりません。しかし、神は罪を犯した私たち人間を救ってやりたかったのです。そこで父は、御子を人として遣わしたのです。御子イエスは自ら進んで十字架にかかって苦しんで死ぬことによって、私たちの罪に対する罰を引き受けて「父よ。彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているのか、わからないのです。」と十字架上で祈ってくださいました。十字架にかかった愛するひとり子の祈りを聞いた、天の父の胸は悲しみと御子へのいとおしさで引き裂かれてしまいました。 

 御子キリストは義なる神と、罪ある私たちとの間の架け橋となってくださいました。こうして、キリストは二重の意味で神と人との架け橋となってくださいました。

 「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」(1テモテ2・5)

復活の喜び

 主イエスは午後三時に息を引き取られ、密かに弟子となっていたヨセフという人がなきがらを引き取って自分の家の墓に安置しました。すると、当局は大きな石をもって封印し、番兵を立てました。ところが、三日目の朝、主イエスを慕った女たちが墓に出かけてみると、巨大な封印石は横に転がされているではありませんか。女たちが墓穴をのぞき込むと、そこにはまばゆいばかりの衣を来た青年がいます。女たちが恐ろしくなって、地面に顔を伏せると、青年は言いました。

「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」

 その日の夕方のことです。弟子たちは、ユダヤ人によるイエスの残党狩りが始まるのではないかと恐怖にふるえながら隠れ家に集まって、「いったい、イエス様のなきがらはどこに行ってしまったのだろう。」と話していました。

すると、イエスが彼らの真ん中に立ったのです。以下引用です。

「彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。『なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。』こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、『ここに何か食べ物がありますか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。」(ルカ24・37‐43)

 主イエスが弟子たちをびっくりさせようといたずら心を起こしてドアを開けずに現れたので、弟子たちは幽霊だと思い、イエスの復活を信じてくれません。イエス困ってしまい、腕まくり、裾まくりして、焼き魚まで食べて復活を実証しました。まばゆいほど明るい場面です。イエスを信じなさい。罪は赦されて、神の国に入れます。