苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

各書は読まれたいように読むべし

 文章というのは、その筆者が「こんなふうに読んで欲しい」と意図したような読み方をするときに、正しい理解と受容をすることができるものである。例えば、一篇の詩は一篇の詩として書かれているのであり、全体としてその流れがあって書かれているのであるから、それを意識をして読むべきであって、やたらと細かく切れ切れに分析して読むべきではない。讃美歌も時間がないからという理由で無造作に「1節と3節だけ歌いましょう」などと言ってしまいがちであるが、それでは作詞家の意図に反する場合が多いだろう。また、小説も最初から最後まで読み通してこそ意味があるように書かれているのであるから、一部分のみ取り上げて云々されるのは、作者にとっては迷惑な話であろう。

 聖書のたとえばパウロ書簡というものは、ある教会にあてて書かれたものであり、その手紙は家の教会で長老によって朗読され、会衆は耳を傾けたものであろう。長い手紙は意味あるかたまりで区切って、解説したり祈ったりしたかもしれない。だから書簡などは、少なくともパラグラフで区切って読まれるべきであって、一節だけ取り上げてやたら細かく分析して読まれることは、記者の意図に反していると思う。だから、私は特別な事情でないかぎり、一節説教というのはすべきではないと考えている。

 現代は主観主義の時代で、もっともらしい哲学的説明を付けて、テクストの筆者の意図などどうでもよくて、読者の側が読みたいように読むというわがまま勝手な解釈法が流行っている。その手の最新の学説を一所懸命に追いかけている人たちがいる。もし学説が常に進歩し真理に近づくものであるならば、最新の学説を追求することに意味があるだろうが、どこに学説が常に進歩するなどという保証があるだろう。私は進化思想に毒されていないので、最新の学説が最善であるとは全く思っていないので、20年、30年もすれば過ぎ去って行く最新の学説や流行には関心がない。大切なのは、聖書各書が伝えようとしていることを、正しく読み取ることである。

 

koumichristchurch.hatenablog.jp