創世記3:20-24
1.妻の名をエバと
3:20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
アダムと妻は、神の戒めに背いて善悪の知識のから取って食べてしまいました。結果、彼らは神と断絶し、霊的に死んでしまいました。以来、人は、自分の精神と肉体を意志をもってコントロールすることすらできない惨めなものとなり、また、自分の隣人に対しても警戒心をもっていちじくの葉で自分の恥を隠さなければならないような、孤立したものとなってしまいました。
さらに、神からのろいをかけられて、女性は子育てと夫との関係において苦しみをなめるものとなり、男はどんなに働いても被造物がその働きに逆らってくるような環境で汗水たらして働かねばならなくなったのです。子育て、家庭、仕事は祝福ですが、その祝福にのろいがともなうものとなりました。
隣人との断絶、被造物との断絶、そして自分自身の中での意志と精神と肉体の断絶。そして、これらは神との断絶という事態がもたらした結果でした。神との断絶とは、霊的な死を意味しています。神との人格的交わりがいのちですから。
アダムからすれば、こうした霊的な死と断絶をもたらした女は、「すべての死の母」とでも呼びたくなるはずです。ところが、実に不思議なことに、アダムは死をもたらした妻を「すべて生きているものの母」という意味で、エバと呼びました。なぜ、アダムは妻を「エバ」と呼ぶことができたのでしょうか?
文脈を見るならば、ただ一つだけ理由が見つかります。それは、蛇に対して語られた神のことばです。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。」
つまり、女から出てくる子孫が、この死をもたらした蛇つまりサタンの頭を踏み砕く救い主となるのだという約束です。この箇所は、次の21節とあわせて「原福音」と呼ばれる聖書箇所です。最初のメシヤ預言です。
アダムに知らされた約束はわずかなことではありましたが。この自分のかたわらの女性が、希望の光なのだということはわかりました。妻は、死をもたらしたけれど、また、いのちをももたらす大切な存在なのだということをアダムは受け止めたのです。そういう意味で、アダムが妻をエバと呼んだことは、彼の信仰告白でした。
妻の側にしてみれば、夫が自分をエバと呼んでくれたことは、どれほどの慰めだったことかと思います。
2.女の子孫のわざ
女の子孫と蛇の子孫はどのように敵対するのでしょうか。バプテスマのヨハネと主イエスは、パリサイ派、サドカイ派の人々を「まむしのすえ」と呼んでいます。
マタイ3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。
「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
マタイ12:34「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。」
ヨハネと主イエスは、彼ら宗教家たちの偽善的なありかたが、サタンに由来するものであると指摘しているのです。主イエスの宣教が始まった当初、悪霊つきがイエスの宣教を妨害しましたが、後半になるとサタンはパリサイ派、サドカイ派といった人々を手下として用いて、主イエスの宣教に敵対するようになって行くのです。
では、「女の子孫」と呼ばれる救い主はどのようにして、サタンに勝利を収めるのでしょうか。「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」と言われています。蛇は、メシヤのかかとに噛み付きます。蛇は勝った!とにやりとします。しかし、次の瞬間、蛇はにやりとしたまま頭を踏み砕かれているのです。巌流島で武蔵の鉢巻が切れ飛んだのを見てニヤリとした小次郎が、つぎの瞬間、その脳天を武蔵の長大な木剣で打ち砕かれたように。メシヤのサタンに対する勝利は、そのような勝利の仕方なのだと預言されているのです。一見すると、メシヤはサタンに噛み付かれて負けてしまったかに見えるのですが、次の瞬間、メシヤはサタンの頭を踏み砕いてしまうのです。
最後の晩餐の席上、主イエスがイスカリオテ・ユダにパンを浸して渡すと、サタンは、イスカリオテ・ユダに入ったとヨハネ福音書の記事にあります。
ヨハネ13:27 彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。
そうしてユダは敵のもとに走って銀貨30枚をもってイエスを売り、ゲツセマネの園で引き渡してしまいます。そうして主イエスは、大祭司カヤパの法廷とローマ総督ピラトの法廷をたらいまわしにされたあげく、鞭打たれて後、十字架に磔にされてしまうのです。十字架上に主イエスは午前9じから午後3時まで6時間にわたって苦しみぬかれ、午後3時暗闇のなかから「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ!わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。
サタンはこの金曜日、悪しき天使たち悪霊どもたちと一緒に、祝賀会を開いて乱痴気騒ぎをしたことでしょう。しかし、サタンは天地の造られる前に神がお定めになっていた、隠された奥義を知りませんでした。
「2:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」(1コリント2:7,8)
その奥義とは、十字架のことばです。尊い神の御子が人となり、人類の代表としてのろいの十字架にかかって死なれるならば、それは、神の御前に人類救済のための犠牲として受けいれられるささげものとして受納されるのだという奥義です。ですから、サタンは知らずして、イエス・キリストの人類救済のためのみわざを遂行することを一生懸命に手伝ったのです。サタンは、その事実を三日目の朝、知らされます。御子イエスは、人類の罪に対するのろいのすべてを受け終わって、死者の中からよみがえられました。サタンは歯噛みして悔しがったに違いありません。
これがへびがメシヤのかかとに噛み付いて勝利を得たと思った次の瞬間、その頭を踏み砕かれたという出来事でした。
3.主は手ずから皮の衣を
原福音、つまり、メシヤ預言はもうひとつのかたちで預言されました。それは神ご自身が手ずからアダムと妻のために皮の衣をつくって、着せてくださったということです。
3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
なんだかこれから困難な旅に送り出そうとする母親が、わが子のために旅の装束を調えて着せてやる有様を思い浮かべて、胸が熱くなってしまいます。前回味わった「園を歩き回る主の声」という表現と並んで、なんとも主なる神の優しさに胸打たれる記述ではありませんか。
アダムと妻は、自分たちで、惨めないちじくの葉っぱの腰おおいを作って巻いていましたが、何度作ってもつくってもしおれて、恥が現われてしまうのです。神は、そこで彼らのために、ある動物の血を流し、その皮をとってこれをなめして、しおれることのない丈夫な皮の衣を手ずから作ってくださったのです。
しかし、この出来事は単に丈夫な皮衣というだけの意味ではありませんでした。それ以上の意味がありました。当時はまた肉食は許されていなかったのですから、アダムとエバは、自分たちの裸の恥をおおうために、いたいけな一匹の動物が殺されて皮を剥ぎ取られて、その皮で自分たちの衣が作られるのを見て、相当なショックを受けただろうと思います。自分たちの神の前における罪を覆うためには、いのちあるものの命が奪われ、血が流されなければならないのだということを目の当たりにさせられたのです。
「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)
この皮衣の表象は、レビ記に出てくる祭司の衣に、そして、新約においてはキリストの用意してくださる義の衣に受け継がれていきます。その意味することは、神の御子があのゴルゴタの十字架において尊い血を流して、私たちの罪を覆い、神は私たち人間を赦してくださったのだということです。
なにやら功徳を積むことによって、神の前に罪の償いができるかのように思って、いろいろな宗教的儀式を工夫したり、苦行をしたり、お布施をしてみたりするのです。生きているときに十分にできなければ、死んだ後に、追善供養をしてやったりもします。しかし、それらはむなしいいちじくの葉にすぎません。人間が、神の前で、自分の犯した罪を自力で覆うことなど、とうていできないものなのです。だからこそ、神が私たちの罪を覆うためにキリストの御血潮をもって義の衣を用意してくださったのです。
私たちとしては、「私は自分で自分の罪をどうすることもできない惨めな罪人です。きよいあなたの目の前に出ることができません。どうぞこの私を御子イエスの十字架の血潮で覆ってください。」と、神の前に白旗を掲げて祈るほかないのです。
4.ケルビム
エデンの園に住むにふさわしくなくなってしまったアダムとエバは、こうして園から追放されることになりました。人間は本来、人としての善悪を定めた神の権威に服して生きるべきものでしたが、あたかも神のように自分で自分の善悪を決めたいという罪深い衝動を持つ者となってしまいました。それは、神に背いたサタンのような生き方であり、この状態で永遠に生きるほど悲惨なことはありません。そこで、彼らは園から追放されることになります。
3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
そして、彼らがいのちの木から取って食べることがないように、エデンの園の東にケルビムという御使いが配置されました。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
ケルビムというのは、主の御座を護る天使であり、これは後に神殿の聖所と至聖所を隔てる垂れ幕に織り出されるものです。
26:31 青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。
26:32 これを、四つの銀の台座の上に据えられ、その鉤が金でできている、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱につける。
26:33 その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。
つまり、神殿における至聖所は神の臨在されるエデンの園を象徴するものであり、罪ある人間はここに入ってはならず、入るならば死ななければなりませんでした。年に一度だけ大贖罪の日に大祭司だけがもろもろのきよめの儀式を経て入ることができたのです。聖なる神と、罪ある人間は決定的に隔てられていることをあらわすのが、この垂れ幕であり、そこにはケルビムが織り出されていました。
しかし、神のみ子主イエスが、あの十字架上で私たちの犠牲となって死なれたとき、このケルビムを織り出した神殿の垂れ幕は上から下に真っ二つに引き裂かれました。
マルコ15:37,38
15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
15:38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
神ご自身が、神殿の垂れ幕を「もう不必要になった」として廃棄されたのです。御子の犠牲によって、神と人とを隔てていた罪は処理されて、私たちは御子を通して、父に近づくことができるようになったからです。こうしてエルサレム神殿に行かずとも、私たちは主イエスの御名によって、世界中どこででも、この苫小牧福音教会でも、まことの神に近づき、いのちの交わりを持つことができるようになったのです。私たちは素晴らしい時代に生かされています。
結び
アダムは、死をもたらした妻をエバ、すべていのちあるものの母と呼びました。それは、エバを通してキリストが来られるという神の約束を信じたからでした。そして、事実、キリストは来られて、あの十字架においてご自分のいのちを犠牲にすることによって、幕屋の垂れ幕を不要にして私たちと神との永遠のいのちの交わりを回復してくださったのです。
私たちは、いちじくの葉っぱで、神の前の自分の罪を覆うことができないことを認めましょう。ただ、神の御子イエスキリストが十字架において流された尊い血潮によってのみ、私たちの罪は赦され、神との交わりに入ることができるのです。
主イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
<反省>
今回も、説教を二度に分けたほうがよかったかな、と思う。創世記3章までの一節一節は内容がありすぎる。