創世記3:15、21、ヘブル10:1-7、マルコ15:22-34
1 「あなたはどこにいるのか」
神のご命令に背いてしまったアダムとその妻であった。日が傾いて涼しくなるころ、主なる神は園をいつものように廻ってこられて、呼びかけられた。「あなたは、どこにいるのか?」神は、ご自分から離れてしまった人に対して、「あなたは、どこにいるのか?」と呼びかけなさる。「あなたたちはどこにいるのか」ではなく、「あなたはどこにいるのか?」と。
アダムはなんと答えただろう?彼は「はい。私はここにおります。私があなたが禁じられた木の実を食べたのです。」と答えることができなかった。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」などとつべこべというのである。
まことの神を見失ってしまった人の特徴のひとつは、「わたしは・・・です」ときちんとしゃべることができないことです。「あの人が・・・」「みんなが・・」「親が・・・」といいますが、「わたしは」と言えない。最初の人が、木の陰に隠れ、いちじくの葉で身を隠し、あるいは「あなたがくれたこの女が」といって人の陰にわが身を隠すように、まことの神に背を向けたときから、人は、「あなたはどこにいるのか?」という問いに、「はい、私はここにいます」と答えられなくなってしまった。
今日、あなたにも、神様は「あなたはどこにいるのか?」と問うておられる。神の前に、一人出ることが必要である。『あの人が』「この人が」『親が』などといろいろな言い訳をする必要はない。神は、あなたの胸の痛みも、歩んできた人生の道筋の傷もみなご存知なのである。あなたが、お母さんのおなかに宿ったときから、あなたのことをご存知なのが、まことの神なのであるから。
神は、あなたを迎えるための用意をしてくださっている。今回は、神様があなたのために、人類のために、用意してくださった救い主キリストについてのお話をしたい。神はアダムが神に背いたそのときから、救い主についての約束をお与えくださった。
2 神との和解
(1)「女の子孫」創世記3:15
神が、蛇に対して語るのろいの言葉において、「女のすえ」が蛇(サタン)の頭を踏み砕くと予告される。不思議なことばである。
『女の子孫』とはなんだろうか?男と女がいてこその子孫ではなかろうか?ところが女の子孫と呼ばれる救い主とは何を意味するのだろう。おそらく、これは最も古い処女降誕の暗示ではないだろうか。通常の出生によって生まれるのではなく、女の子孫として生まれる者がキリストである、と。今からおよそ二千年前、イスラエルの北部地域ガリラヤのナザレという町にマリヤという娘に、天使が出現して神の御子が彼女のおなかに宿ることを告げた。彼女は処女であり、婚約者がいたのでしばしおじ惑ったが、「おことばのとおりなりますように」とそのことを受け入れたのだった。そうして生まれたのが父なる神の御子だった。それは永遠から永遠にいます三位一体の第二位格が、人となってこの世に来られたということである。預言者イザヤは言った。「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ばれる。」
その女の子孫は、どのようにしてサタンと闘うのか。みことばが告げているのは、へびはキリストのかかとに噛み付くが、キリストはへびの頭を踏み砕くという不思議なことばである。蛇は彼のかかとに噛みついて、してやったりと思った次の瞬間、踏み砕かれてしまうというのだ。剣術の極意に、「皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を断つ」とあるように、「かかとをかませて頭をくだく」そういう峻烈な戦いによって、キリストはサタンに勝利するというのである。
この預言は次のように成就した。天の父と神の御子は、本来、御子の似姿として造られた人間が、罪に打ちひしがれ、互いに傷つけあい、被造物をも苦しめているありさまをごらんになって、はらわたが痛むほどにかわいそうに思ってくださった。そして、その憐れみのあまりに、父は御子をこの世界に遣わされた。
マリヤから生まれた神の御子イエスは、30歳になると「悔い改めなさい。天の御国は近づいた。」と宣言して伝道活動を始めた。主イエスは、友なき者の友となり、やめる人を癒し、己が罪に悩む人を赦して歩かれた。多くの人々はイエスのあとに付き従った。けれども、イエスの人気をねたむ人々がいた。当時の宗教的指導者であった祭司階級・律法学者たちである。サタンは彼らのうちに働いて、御子イエスに敵対させた。
主イエスはさまざまな宗教的戒律をもって民衆に負いきれない重荷を負わせ、自らはその重荷に指一本ふれない彼らの偽善に対して、彼らを「蛇ども、まむしのすえども」と呼んだ(Mt23:33)。創世記3章で言われた「へびの子孫」のことであろう。彼らはますますイエスを憎み、最後に暗黒裁判にかけ、十字架刑にしてしまうのである。聖なる神の御子を十字架につけたとき、彼らは「おまえが神の子なら、今、さっさと十字架から降りてきてもらおうか。」とあざけった。サタンの勝利の叫びである。
しかし、実は、神の御子を呪いの十字架にかけて殺した瞬間、蛇の頭は踏み砕かれるという不思議が起こる。それは、次の預言の成就によってである。
(2)いちじくの葉と皮の衣・・・創世記3:21
創世記3章におけるキリストにかんするもう一つの預言は、21節「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」という出来事に表わされている。キリストはどのようにして、私たちをお救いになるのか?ということがここに現れている。
① 神が手ずから
このことばは、神が皮衣を作ったというのが、いかにも神人同形論のように映るので、カルヴァンはそれを警戒したのだろう、神が、あたかも毛皮商人や仕立て屋のように、獣を殺し毛皮をなめして縫い合わせて皮の衣を作ったということではなくて、そうすることを人間に許可したという意味であると解釈する。
たしかにそこには人間としてはアダムとエバしかいなかったのであるから、皮衣を製作することが出来るものがいるとすれば、神ご自身か、この二人の人しか存在しなかった。そして、神が自分で動物を殺し、皮をはぎ、これをなめし、縫製したというのである。文字通り取るべきだろうか。文字通り取るべきだろう。「神が彼らのために皮の衣を作って、彼らに着せてくださった」という驚くべき恵みの表現である。
すでに創世記2章、3章の表現を読めば、全体として神がいとも近きお方として、園を歩いて回っていらっしゃるようすがうかがえる。先に、「そよ風の吹くころ園を歩き回られる主」という大胆な恩寵的・下降的な愛(アガペー)をすでに、創世記記者は霊感されているのである。ここもまた、神が手ずから彼ら罪人のために皮衣を作ってくださったという表現を率直に読み取るのが自然である。
人ではなく、主なる神が皮衣を作り、彼らに着せてくださったということを、すなおに読みとってこそ、先に人が自分の手でいちじくの葉で腰おおいを作ったこととのコントラストが明瞭になろう。人は罪を犯して、その恥を覆うために無花果の葉で腰のおおいをつくった。だが無花果の腰おおいなど、半時もすればすぐにしおれてしまう。そしてまた腰の覆いを作るが、またしおれてしまう。これは、人間が自力で神の前に自分の恥を覆い隠そうとするわざがいかにむなしいかということを表わしている。人は、自分で自分を神の前に正しくすることなどできないのである。自力救済主義の破綻である。
だから、神が、自ら人間の裸の恥を覆うために、着物をつくってくださった。しかも、それは罪のない動物の血を流して造られた皮の衣だった。
② 血が流されて
「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」へブル9:22
ここには、文脈的に見て、あきらかに人間がはだかの恥を覆うために、自分で作ったいちじくの葉の腰おおいとのコントラストがある。いちじくに対して皮衣は長持ちする。だが、ここには単に着物として長持ちするという以上に霊的祭儀的な意味がある。
もっとも、ここにキリストの贖いの予型をただちに読むのは、exgesusでなくeisgesusであるという指摘もあるだろう。しかし、文脈を十分にわきまえるとき、読みこみとはいえないと思われる。このときアダムとエバのために初めて動物の血が流され――というのは彼らはこのときまだ肉食をしていなかったから――、その衣で彼らが恥ずべき裸をおおったとき、彼らにはそれは大きな衝撃であったろう。自分たちの恥を覆うには生き物の血が流されいのちが求められるのだと認識させられたのだ。「それを取って食べるそのとき、あなたは必ず死ぬ」と言われたのに、死んだのは自分ではなくこの動物だった!! これを見たとき、その動物が私の罪の身代わりとなって血を流して死んだのだということを彼らは悟らざるを得ないであろう。
人間が自分の恥をおおうために自分でなす、自力救済主義によるよきわざを象徴するのが、いちじくの葉であるとすれば、神が人の恥(罪)をおおうわざを表わすのが血を流して用意された動物の皮衣である 。恩寵救済主義。
しかし、動物の犠牲によって人間の罪はほんとうに赦されることができるだろうか。人間は被造物の中でただひとつ神の御子になぞらえて造られた尊い責任ある存在である。その罪の責めを他の被造物が身代わりに担うことは、本来、できようはずはない。実は、人の罪の恥をおおうために犠牲となった動物は、来るべきイエス・キリストを指差す型だった。本体を指し示す影だったとヘブル書は教えている。
「10:1 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。 10:2 もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。 10:3 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。 10:4 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
10:5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。
「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。 10:6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで
満足されませんでした。そこでわたしは言いました。
『さあ、わたしは来ました。
聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、
神よ、あなたのみこころを行うために。』」(ヘブル10:1-7)
神の御子は人となって、この世界に来られ、十字架で血を流されて、私たちの罪のための犠牲となってくださいました。およそ二千年前、エルサレム城外のゴルゴタの丘での出来事です。
(3)神が人となられ、十字架と復活で罪の贖いを成し遂げられた
「15:22 そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。 15:23 そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。 15:24 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。 15:25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 15:26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
15:27 また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。 15:29 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。 15:30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。』
15:31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。『他人は救ったが、自分は救えない。 15:32 キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。』また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。
15:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。 15:34 そして、三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」」という意味である。」(マルコ15:22-37)
あの日、主イエスが十時間釘付けにされたのは午前9時だった。そして、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫んで後、息を引き取られたのは午後3時だったから、6時間にわたって主イエスは十字架で苦しまれた。けれども、この6時間は前半の3時間と後半の3時間で際立った違いがある。
前半の3時間、太陽の光が丘の上の十字架の主イエスをじりじりと焼いていた。そして、人々は「他人は救ったが自分は救えない。キリスト、イスラエルの王よ、今、十字架から降りてもらおうか」などという罵った。前半の三時間、それは人間によるさばきだった。しかし、その怒号の中で主イエスは隣で苦しむ罪人のために「あなたは今日パラダイスにいます。」と祈る余裕さえあった。
だが、正午に太陽は光を失い、暗闇がゴルゴタの丘を覆った。過ぎ越しの祭りの時期に日食は起こりえないから、これは自然現象ではなく、超自然現象である。この不思議な暗闇は小アジアのビテニヤでも観察されたという記録がある。また後半の3時間、人のことばも記録されていない。主イエスは暗闇と沈黙のなかで、十字架をしのばれた。そして最後に「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ!」と叫ばれたのである。あの暗闇は何を意味したのだろうか。聖書の他の個所を見れば、暗闇は終末的な神の怒りを意味する表象である。
アモス8:9「その日には、―神である主のみ告げ―わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに知を暗くし・・・」
ヨエル2:31「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」
「木にかけられた者は呪われた者である」とあるとおり、御子イエスは私たちの罪の身代わりとなって、父なる神からの呪いを一身に担われました。人となられた神の御子は、人類の代表として、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。
御子は世界が造られる前から、永遠の昔から、御父との愛の交わりのうちに生きてこられた。だから、この世界に来られて、どんな苦しみや脅かしにあっても、御子の平安は失われることがなかった。しかし、あの十字架の上で御子が天を見上げてあの慈しみ深い父の顔をさがしても父の顔を見出すことができなかった。「わが神、わが神」と叫ぶ御子の声を聞いて、天の父は耳をおさえ御顔を隠された。このとき、天の父の胸は御子へのいとおしさに張り裂けてしまった。
神は愛である。これほどの痛みをあえてになってまで、神はあなたを罪と滅びから救い出そうとされた。神の愛を拒んではならない。
結び 神の愛に応答しよう
(1)信仰義認
神様の側では、私たち人間の救いのための用意は完成された。あとは、私たちがこの救いをいかに受け取るかということ。それは、行いによってではなくて、恵みのゆえに信仰によって受け取るのである。何か善行を積むことによって、苦行をすることによって、いちじくの葉をつづることによって、キリストの十字架の贖いを買うことはできない。
それは、「恵み」である。恵みとは、それを受けるに値しないものが神から受ける不当な祝福である。自分には神の前で罪があるという事実を認め、神はこんな罪ある自分を愛して、尊い御子イエスをくださったという事実を感謝して、御子イエスを救い主、人生の主として受け入れることである。
御子イエスを受け入れるならば、神は、イエスにあって、あなたの罪は永遠に赦されたよ、と宣言してくださるのである。
(2)神の子どもとされる
御子イエスを信じた人に、神様は「神の子どもとされる特権をお与えになった」と聖書には記されている。私たちは、罪を赦されただけでなく、同時に、神様の子どもとされて、創造主である神様から格別の愛を受けることができるようになった。
ある人が刑務所にはいって死刑判決を受けていつ処刑されるかとびくびくしていた。ところがある日、看守がきて彼に特赦を告げる。びっくりして彼は刑務所の出口の扉をくぐる。「世間の風は冷たいだろうし、これからひとりどうやって生きていったらいいのか」と不安が心をよぎる。ところが、重い鉄の扉が開くと、そこにはあの裁判官がそこに裁判官のガウンを脱いで待っていてくれた。そして彼に言う。「さあ、君はもう罪は赦された。これからうちに来なさい。私の子どもとして、私の家族として一緒に生きていこうではないか。ここにいる人たちはみな、そうして私の家族となったのだ。」
教会というのは、イエス様によって罪を赦していただき、イエス様にあって神の子どもとしていただいた者たちの集い、神の家族である。
(3) 聖とされる
神の家族のなかで、私たちは成長して行く。このことを聖化という。それは、御子イエス様に似た人格として成熟していくことを意味している。それは無理なことではなく、不自由なことでもない。
なぜなら、もともと、人間というのは、神のかたちである御子に似た者として造られたのだから、本来の人間性を取り戻して行くのが、クリスチャンとしての成長、聖化なのである。それは、生活の全領域でキリストを目指して生きてくことである。