1.十字架のもとぞ いとやすけき
神の義と愛の 会えるところ
嵐吹くときの 巌の陰
荒野の中なる わが隠れ家
2.十字架の上に われはあおぐ
わがため悩める神の御子を
妙にも尊き 神の愛よ
底いも知られぬ人の罪よ
(讃美歌262)
この歌ほど十字架の主イエスの姿とその奥義を鮮明に、そして切々と歌う賛美歌をほかに知りません。
「十字架のもとぞいとやすけき」の「ぞ〜やすけき」は、強調の係り結び。ほかの場所には平安はない。ただ十字架の下だけが平安の場なのだと力説します。神は義なるお方です。神の激しい御怒りの雷鳴の下に、罪人はおののき、おじ惑うばかりです。しかし、御子は私たちを御怒りから救うために、聖なる避雷針となってくださいました。神の怒りは私たちにではなく、十字架の御子イエスに激しくくだりました。ただ十字架の下だけが平安なのです。
「十字架の上にわれはあおぐ、わがため悩める神の御子を」の理解の鍵は「悩める」の「る」という助動詞にこめられた臨場感です。「る」は存続の助動詞「り」の連体形ですから、「わたしのために悩んでいる神の御子」という意味です。心の目は、今まさにカルヴァリーの丘の上で苦しみあえいでいる神の御子を見ています。主イエスを十字架に釘づけるために槌を振り下ろしたのは、私の手。主イエスに唾を吐きかけ、こぶしを振り上げたのは私。そして御子が「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られるのは、この私のためなのだという思いが胸に迫ります。
十字架の主イエスを仰ぐとき、私たちが見るものは何でしょうか。御子を棄ててまで罪人を愛される不思議な神の愛と、底しれず深い人の罪です。
「妙にも尊き 神の愛よ
底いも知られぬ人の罪よ」
近年、十字架の福音が見捨てられている観があることを、私は悲しんでいます。人の罪が語られず、人の価値ばかりが語られ、神の義が語られず、観音様的無限抱擁の愛ばかりが語られるなら、十字架のことばは無用になったのでしょうか。ああ、主はだれのために、何のためにカルバリーで血を流されたのでしょう。