苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神のかたちのかたち

1:15御子は、見えない神のかたちεἰκὼν τοῦ Θεοῦ)であって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。 1:16万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。 1:17彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。 」口語訳聖書

 

 使徒パウロは、創造論的な文脈の中において、「御子は見えない神のかたちεἰκὼν τοῦ Θεοῦ」であると述べている。パウロが創造について論じるときに「神のかたち」として意識する聖書箇所はどこだろう? いうまでもなく創世記1章26,27節であろう。パウロが親しんだ七十人訳旧約聖書の当該箇所は次のようになっている。

26καὶ εἶπεν ὁ θεός Ποιήσωμεν ἄνθρωπον κατ᾽ εἰκόνα ἡμετέραν καὶ καθ᾽ ὁμοίωσιν· (中略) 27καὶ ἐποίησεν ὁ θεὸς τὸν ἄνθρωπον, κατ᾽ εἰκόνα θεοῦ ἐποίησεν αὐτόν· ἄρσεν καὶ θῆλυ ἐποίησεν αὐτούς.
 (26神は言った「われわれのかたちにしたがって、似るように、人を造ろう。」(中略)27そして、神は人間を造った。神のかたちにしたがって、彼を造った。男と女とに彼らを造った。:私訳)

  七十人訳ギリシャ語聖書の創世記1章26,27節には、「κατ᾽ εἰκόνα ἡμετέραν (われわれのかたちにしたがって)人を造ろう」「 κατ᾽ εἰκόνα θεοῦ (神のかたちにしたがって)彼を造った」とあった。つまり、七十人訳では神は人間を直接的な意味で「神のかたち」として造ったのではなく、「神のかたち」を介して人間を造られたと教えている。ヘブル語聖書本文では、「κατ᾽ εἰκόνα ἡμετέραν (われわれのかたちにしたがって)」は「ベ・ツェレム・ヌー」であり、ごく普通に訳せば「我々のかたちにおいて」という意味である。「 κατ᾽ εἰκόνα θεοῦ (神のかたちにしたがって)」は「ベ・ツェレム・エロヒーム」で、「神のかたちにおいて」という意味である。七十人訳は、ヘブル語の「べ」という前置詞を、ギリシャ語のκαταと訳したのである。

 七十人訳の創世記1章26,27節を受けて、パウロは創世記1章における「神のかたち」は実は御子なのだと理解しており、神は御子に従って、つまり、御子をモデルとして人間を創造したと言っているのである。御子が「神のかたち」であるから、人間は「神のかたちのかたち」なのである。エイレナイオス、オリゲネス、アタナシオスらは、コロサイ書に基づいて創世記の人間創造を理解している。とはいえ御子と御父はうり二つであるから、御子をモデルとして造られた人間を「神のかたち」と呼ばれることもあり、決して間違いではない。

 ただ人がもともと御子をモデルとして造られ、御子を目指して造られたということを理解していれば、我々の聖化・栄光化について述べたパウロのことばがすんなりと理解されるであろう。

主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主のかたちに変えられていく(τὴν αὐτὴν εἰκόνα μεταμορφούμεθα) 。これは霊なる主の働きによるのである。」(2コリント3:17,18 私訳)

 人は本来御子に従って御子を目指して創造されたが、アダムが堕落してしまった。だが、そんな惨めな状態に陥った人間を救うために、御子が人となって来てくださり十字架と復活をもって贖いを成し遂げてくださり、天から御霊を送ってくださった。それによって、私たちは再び本来の目的である御子を目指して変えられて行くこと、つまり聖化・栄光化の人生を歩むようになったのである。そこには自由がある。飛ぶべくして造られた鳥が飛ぶときに自由であり、泳ぐべくして造られた魚が泳ぐとき自由であるように、本来、人間は御子を目指して造られたので、御子に倣って生きるときにこそ、自由を経験するのである。