苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

イエスから目を離さず

マルコ1:9−11

1:9 そのころ、イエスガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。 1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。 1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」


1 罪人の友

 主イエスは、ガリラヤのナザレという町で母マリヤ、養父ヨセフのもとで育てられますが、ヨセフの影はイエスが12歳のときを最後に福音書から消えてしまいます。主イエスは母を助け、一家の長男としてヨセフとマリヤの間に生まれた弟や妹たちの世話をするというご苦労を経験なさいました。私の一番好きな讃美歌は121番(作詞由木康、作曲阿部正義)に次のようにあります。
「馬舟のなかにうぶごえ上げ、
たくみの家に人となりて 
貧しきうれい 生くる悩み 
つぶさになめし この人を見よ」
ところが、30歳になると、突如、イエスは公に神の国の福音を宣べ伝える生涯に入られました。一般にこれをイエス・キリストの公生涯と呼びます。
 その公生涯のスタートにあたって、主イエスがしたことは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けるということでした。ヨハネは、先週学びましたとおり旧約時代最後の預言者として、人々に「悔い改め」を告げ、自分のあとにキリストが来られると予告していました。ヨハネの悔い改めの運動は、一定の支持者を得て、彼についてくる弟子たちも相当数いて、シモンとアンデレの兄弟もそのメンバーでした。
主イエスヨルダン川にいるヨハネのところにやってきたとき、ヨハネは「このお方こそが来るべきキリストである」とわかりました。ヨハネは、まだ母エリサベツの胎内にいたときに、訪ねてきた親類のマリアのおなかのなかにいた直径5ミリくらいのイエス様にあったときでさえ「主だ!」とわかって、胎内で喜び踊ったとルカ福音書に記録されているくらいですから、成人して現れたイエスが待ち望んだキリストなのだということを、御霊の示しによって悟ったのは当然のことでした。
 イエスヨハネに近づくと、「わたしにバプテスマを授けてくれ」とおっしゃいました。ハネは驚き、かつ、躊躇しました。二つ理由があったと思われます。一つの理由は、自分は奴隷としてキリストの靴のひもを解く値打ちさえないのだと自覚していたからです。そんな自分が、キリストであるイエスに洗礼を授けるなどとはなんとおこがましいことでしょうということです。むしろ自分こそ、イエスに洗礼を授けていただくべき小さな者だと考えるわけです。今や待望されたメシヤ(キリスト)が来られ、メシヤのもたらす救いの恵みは、自分が宣べ伝えてきた旧約時代の恵みに比すれば、月とスッポンです。
 ヨハネがイエスバプテスマを授けることに躊躇したもう一つの理由は、彼が授けていたバプテスマは「罪の悔い改めのバプテスマ」であったことです。罪のしみ一つない神の御子があえて「罪の悔い改めのバプテスマ」を受けたいと望まれたのか考えてみれば大変不思議なことです。イエス様に何を悔い改める必要があるでしょう。
 主イエスの弟子のそばにいて三年間寝食をともにした弟子ペテロが、後年こんなことを言っています。「キリストは罪を犯したことがなく、その口になんの偽りも見出されませんでした。罵られても罵り返さず・・・」。みなさんは3年間、寝食をともにする生活をし、その人のことばをずっと聴き続けていて、その人には罪のしみ一つないなあという人に会ったことがあるでしょうか。3年間寝食をともにしたペテロは「あの方は、罪を犯したことがなかった。」と証言するのです。ゆえなく十字架に付けられて、不条理な苦しみにあわわれても、罵ることさえなさらなかった。その罪なきお方が、罪の悔い改めのバプテスマを施してくれとヨハネに頼んだのでした。なぜでしょう? それは主イエスが私たち罪人をさばくためにではなく、罪人をその罪から救うために、罪人の友として、この世界に来てくださったからです。罪なきお方が、まるで罪人であるかのように、罪の悔い改めのバプテスマを受けられたのです。このお方は三年後、この罪なきお方は、あたかも罪人であるかのように、十字架に磔にされてしまうのです。それは罪ある私たちの罪の償いをするためです。主イエスバプテスマを受けたヨルダンの川面には、すでに十字架の影が映っていたのです。


2 三位一体・・・父の愛と御霊の注ぎを受けて

 さて、主イエスヨハネからバプテスマを受けたとき、不思議なことが起こりました。
「天が裂けて御霊が鳩のように」主イエスの上に下り、天から父なる神の声が響いたのです。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と。
 御子がいよいよ神の国の福音を宣べ伝え、その成就のためにゴルゴタの丘の十字架に向かって行かれるというときに、父なる神と御霊なる神は、ともにこの困難な業に携わられるのだということを表わされたのだと理解することができます。つまり、父子聖霊の三位一体の神が総動員で、私たち人間を罪と滅び、サタンの圧制から救い出すことになさったということです。
 また、父なる神のお気持ちとしては、愛するわが子をゴルゴタの丘にいたる茨の旅路に送り出すにあたって、御霊を与えて力づけ、「あなたはわたしの愛する子だ、わたしはあなたを喜んでいるよ」というお言葉をもって励ましてやりたかったのです。主イエスの伝道のご生涯をつぶさに見てまいりますと、しばしば寂しい所に退かれたという記事が出てきます。人々がイエス様の起こす癒しの奇跡や、五千人給食の奇跡で沸き立っているようなとき、そして十二人の弟子たちも熱に浮かされているようなとき、主イエスご自身はそういう喧騒から退いて、父なる神の前に一人になられました。父の御心をたずねるためであったでしょうし、父から愛と励ましのことばをいただくためだったのでしょう。御霊に満たされ、御父の愛を受けてこそ、御子は父が計画された人類の救いのためのご生涯をまっとうすることがお出来になったのです。
 主イエスのキリストとしてのご生涯は、冷たい義務感や使命感、あるいはヒロイズムによるものではなく、最初から最後まで愛によてまっとうされたご生涯でした。父の愛を受け、その父の愛にご自分も愛をもって応答なさった、それが主イエスの献身のご生涯でありました。


3 主イエスから目を離さず――キリストの生涯と私たちの人生

(1)救済論的に
 御子の地上のご生涯は、私たちキリスト者の地上の歩みと重ねあわせられて理解されるべきです。私たちは、キリストの足跡にしたがって生きていくのです。それは神の御子であるキリストが、あの最初のクリスマス以来、真の人となってくださったからです。私たちは人間ですが、アダムにあって罪に堕ちてしまい、真実の意味では十分人間ではなくなってしまっています。そこで、神の御子が真の人となってこの世界に来られて、十字架にかかり復活して罪を償ってくださる前に、<真実の人間とはこのように考え、このように祈り、このように行動するものなのだ>という見本を見せて生きてくださいました。アダム以来の罪が内側に巣食っている私たちは、喜ぶべきでないことを喜び、悲しむべきことを喜んでしまうことがあります。怒る必要のないことで怒り、怒るべきときに怒ることのできないような者です。ものの考え方もゆがんでいます。私たちの知性も感情も行動も罪ゆえに、神様を押しのけ、隣人を押しのけ、利己的な傾きがあります。生まれながらの私たちは、一応人間ですが、十分に人間ではありません。「早く人間になりたい!」というのが私たちの魂の叫びです。
しかし、キリストにあって罪赦されて、キリストの御霊を受けたとき以来、私たちは、新しく生まれ変わり、生涯をかけてキリストに似た者とされていく途上にあります。救済論的意味において、私たちはキリストに似た者にされていくのです。

(2)創造論的に
 しかし、神の御子であるキリストを見つめて生きるというのは、生身の人間にすぎない自分にとってはあまりにも理想主義的で窮屈な生き方ではないか、と思う人がいるでしょう。実は逆です。なぜでしょうか?(ここが話の肝です!)もともと人間というものは、創造において、御子をモデルとして、御子に似た者として創造され、御子の姿に向かって成熟して行くべき存在として造られたものであるからです。コロサイ書1:15,16

 「1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」

 コロサイ書が万物の創造について語る文脈の中で「御子は見えない神のかたちである」というとき、意識されているのは、創世記1章26,27節のみことばです。

 「1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」 1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」

 新改訳聖書第三版では「神のかたちとして」と訳されているので、人間がすなわち神のかたちであるかのように取られてしまいますが、「神のかたちにおいて」が直訳です。日本語の聖書の中では文語訳聖書は、次のように訳していました。

「1:26神言給けるは我儕に象りて我儕の像の如くに我儕人を造り之に海の魚と天空の鳥と家畜と全地と地に匍ふ所の諸の昆蟲を治めんと 1:27神其像の如くに人を創造たまへり即ち神の像の如くに之を創造之を男と女に創造たまへり」

 「神のかたちとして」でなく「神の像(かたち)の如くに」という訳のほうが的確だと思います。「神の像(かたち)」とは、すなわち三位一体の第二位格である御子のことです。つまり、人間はもともと三位一体の第二位格である御子をモデルとして造られた存在であり、成熟して御子に似た者となることを目指して造られた者なのです。ところが、アダムにあって堕落してしまったために、アダムとその子孫である私たちは本来の姿から離れてしまいました。しかし、そういう悲惨な状況に陥った私たち人間を、人間のモデルである御子はあわれんでくださって、私たちを本来のあるべきところに戻してくださるために、自ら真の人間となられて二千年前、この世界に来てくださったのです。ですから、私たちがキリストに倣って生き、キリストを目指して生きていくということは、人間としての本性にかなったことなのです。だからこそ、キリストに倣って生きるということは、高邁すぎる理想をかかげているようでありながら、実は、これこそ自由な生き方なのです。
ひとつ譬えを話しましょう。飼い主の変な趣味で、犬に猫のように生活することを強いて「ワンワンと吼えるな。ニャ〜と鳴け」としつけ、雪が降って庭を駆け回りたいのに「君はネコらしく、コタツのなかで丸まっていなさい」と強制すると、犬はとても不自由です。ところが、別の良い人が、その犬を買い取って、「さあ、君は犬なのだから、犬らしく生きるがいい。」と言われたら、その犬は最初はとまどうでしょうが、やがてのびのびと犬らしくワンワン吼えて、雪が降れば庭を駆け回るようになるでしょう。本来の生き方に立ち返ったからです。
人間というのは、もともとキリストに似た者、つまり、父なる神に愛され、父を愛し、隣人を自分自身のように愛するように造られた存在です。ですが、アダムにあって堕落して以来、人間は生まれながらには、神に愛されていることがわからなくなり、神を憎み、隣人をねたんだりそねんだりする不自由な状態に陥ってしまいました。ネコであることを強いられている犬みたいなものです。しかし、人が神の愛を受け入れキリストを信じて、罪赦されて、だんだんとキリストのように神を愛し隣人を愛して生きることができるになるにつれて、その時には、自由と湧き上がる喜びを経験することができるのです。クリスチャンの喜びはそこにあります。

結び
主イエスは、私たちの模範として、バプテスマをお受けになりました。ですから、私たちキリスト者もそのキリスト者としての生涯のスタートにおいてバプテスマを受けます。
主イエスは、天から御霊の注ぎを受け、父なる神からの「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という声をお聞きになりました。主イエスは神様の実子であり、イエス様を信じる私たちは養子であるという違いはありますが、父なる神は、あなたにも、聖霊を注ぎ「あなたはわたしの愛する子だ、わたしはあなたを喜んでいるよ」と語りかけておられるのです。
クリスチャンでありながら、「神様は自分のような罪深い人間を、キリストへの義理で赦してはくれたけれど、愛してはおられないのではないか」という悲しい疑いを心ひそかに抱いている人が実はかなりいるように思います。そんなことは、ありえないことです。神はあなたに「あなたはわたしの愛する子だ。わたしはあなたを喜んでいる。」とおっしゃるのです。父の愛を受け入れなさい。
主イエスにしたがってゆく道は、楽しい春の小道であることもありますが、時には茨の道をとおることもあります。けれども、私たちの人生は、聖霊に満たされ、神様の愛を注がれているのですから、これほど幸せな人生はほかにはありません。それは御国の前味としての人生です。

「悲しみ尽きざる 憂き世にありても
日々主と歩めば 御国の心地す
ハレルヤ 罪咎消されし わが身は
いずくに ありても 御国の心地す」(聖歌467)