苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

岸見一郎、古賀史健『嫌われる勇気』ーアドラー心理学の意義と限界

 副鼻腔炎の手術で入院初日4月1日、この本を読んだ。アドラーの名は聞いたことはあったけれども、具体的にその内容を知ったのは今回が初めてである。『嫌われる勇気』という書名が強烈な印象を与える。開いてみて面白いのは、プラトンの対話篇風に悩める青年と哲人との対話で話が展開していくことである。というのも、岸見一郎氏はギリシャ哲学の研究者でもあり、彼の見方からいうと、アドラーの心理学はギリシャ哲学の流れを汲んでいるものなので、このようなスタイルがふさわしいと考えたのだろう。実際、この対話篇は面白い。きっと名著として長く読まれて行くだろう。

 さて、その内容であるが、三点に整理できるだろう。対話篇の叙述の順序は下の第二の次に第一なのだが、理解しやすくするため、ここでは順序を入れ替える。

 第一に、人間の問題のすべては対人関係にある。人は自分の人生を生きる時にこそ自由を経験できるのであるが、多くの人は、他人(ひと)からどう思われるか、評価されるかされないか、好かれるか嫌われるかといったことに左右され、絡め取られて、自分の人生を生きていない。それによって不自由になり、自らを苦しめている。承認欲求は捨て去らねばならない。承認欲求は人を不自由にするのである。また人と比べることも自分を生きることの妨げになる。

 第二に、人間は過去によるのでなく未来によって生きるのであるということ。言い換えると、原因の結果として今があるのではなく、目的によって今を選び取っているのであるということ。つまり、生育環境のせいで今の自分がこうだとか、いじめにあったから今の自分はこうだというのではなく、それはアドラーに言わせれば「人生の嘘」だという。過去の影響が現在にないわけではないが、過去のある事柄をどのように解釈して意味付けるかは、あなた自身が選び取ったことなのだ、という主張である。

 この点は明白に人間を原因によって支配されているモノとして見るフロイトユングに対するアンチテーゼである。人間がモノのように、ある原因の結果として現状があるのだとしたら、人間は未来を切り開くことはできない。幼い日に受けたトラウマに支配されて生きる他ないことになる。アドラーは、そういう「原因論」を徹底的に批判し、人は目的によって現在の自分を選び取っているとする「目的論」こそ本当なのだという。だから人間は未来に向かって今とは違う自分を選び取ることができる。そのために必要なことは、勇気である、と。

 第三に、いささか唐突に、あるいは一見、上記の主張に矛盾するかのように、アドラーは対人関係のゴールは「共同体感覚」であるという。共同体感覚というのは、「私は仲間の中で生きている」という感覚である。不自由な時には「私の周りは敵ばかりだ」という感覚だから周囲のご機嫌を取るために自分の人生を生きられなくなっていたのが、「私は仲間の中で生きている」という意識においては「私は自発的に他者に貢献するために仕事をする」ことができるようになる、という。それは承認欲求を満たすためでなく、純粋に他者のため自発的にという点で、第一点の人の生き方と決定的に違う。

水草コメント>

 第一点に関して、「人間の問題のすべては対人関係にある」と主張するアドラーの限界は、彼は神を認めず、対神関係というものを鼻から無視しているということである。対話篇の青年は「神」を認めていないが、対人関係がすべてと言い切る哲人に対して反論している箇所がある。彼はもっと永遠的な事柄が、自分の悩みの根底にあるのではないか、あって欲しいという願いがあることを感じさせる箇所である。創世記1-3章は、私たち人間は対神関係、対人関係の中に置かれたと教えている。無神論という啓蒙主義的な視野狭窄アドラーの限界である。

 とはいえ対人関係に絞ってみて意味ある議論もある。アドラーの主張を、近年流行している表現で言えば、自分と他人のバウンダリー(境界線)をわきまえないところに人間の苦しみがあるということに当たるだろう。「他人は他人、私は私」なのだということをわきまえよということ。

 ガラテヤ書6章には、興味深い箇所がある。「2、互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(中略)5,人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」私たちは「他人の重荷を自分のものと感じなければならない」と考えることがある。結果、「すべては私のせいだ」と自分を責めてみたり、他の人が負うべき重荷を奪い取っておせっかい・甘やかしをしてしまうことになる。私はラインホルト・ニーバーの落ち着きの祈りを知って、そういう過ちから守られるようになったと感じている。無神論者には祈りは無益なことであろうけれども。

「神様、私にお与えください、
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを、
変えられるものは変えていく勇気を、
そして、二つを見分ける賢さを。」(女子パウロ会の訳)

 

 第二点に関しては、アドラーの背景には、ハイデガーの「未来が過去を決定し、現在を生成する」という思想があるように見える(当たっているかどうかわからないが)。また、アドラーハイデガーの背後には主イエスのことばがあるようにも思わせられる。すなわち、ヨハネ福音書9章の生まれながらの盲人を見て、弟子たちが「これは両親のせいです、それとも本人のせいですか」と主に問うたのに対して、「親のせいでも本人のせいでもない。神のわざがこの人に現れるためだ。」と言われたことである。

 アドラーは新しい自分の未来を選び取って行くためには「勇気」が必要だという。ここが超越者なる神を認めない哲学者としての信念であり限界なのだろう。それは<人は真理を知るならば、それを行うことができる。人が真理を行えないのは、十分に真理と知らないからである。>というソクラテスプラトン的信念である。聖書は<人は真理を十分知っていても、それを行うことができない罪の現実の中にある。神が人つまりイエス・キリストとなってこの世に来られたのは、その罪から人を救うためなのだ。>と教える。

 第三点に関しては、第一の「他人は他人、私は私」という生き方だけでは、利己的で反社会的になってしまうので、そういうことを意図しているのではないという説明として、アドラーは共同体意識を持ち出していると考えられる。以前のように人からの評価が欲しくて、つまり承認欲求を満たすために何かをするのではなく、自発的に喜ばしい奉仕の精神をもって、他者のために何かに取り組んでいくのである。これはコリント書12章の教会共同体についての教えと重なる。「みなの益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」(12:7)キリスト者にとってのよき業「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということにあたる。

 以上のように岸見、古賀両氏のアドラー心理学紹介対話篇を理解して、思ったところをメモしてみた。ソクラテスプラトン相対主義・物質主義的な当時の世相の中で、「よく生きること」を目指して知を愛し、イデアにあこがれた哲学者だった。それは人間を過去の原因に縛られたモノとして捉えるフロイト流心理学に対して、アドラーが人間を未来の目的に向けて選択する自由な存在として捉えたことと類比の関係にある。アドラー心理学の感動的な主張にもかかわらず、世的にはフロイトの影響力がはるかに大きく見える。それはアドラーの主張は、理想主義にすぎるとみられるからだろう。

 では、聖書は人間の現実をなんというか?「神のかたちなるキリスト」になぞらえて創造された人は、本来、善を求める。だが、人はアダムにあって堕落してしまって以来、罪への傾向性を免れることができないから、善を求めながら善をなしえずかえって悪を好む自分と葛藤しているのだという。そういう人間を救うために「神のかたち」キリストは人となって来られた。我々はキリストへの信仰によって、新しい人とされて、罪の縄目から解放されて、善を自発的に求める者と変えられる。 こうして見ると、アドラー心理学はキリスト信仰に類似している点が多い。「神なきキリスト教」という感じである。ただしアドラーにおいては肝心の神がいないから、彼のいう「勇気」がどこから湧いてい来るのかがわからない。