苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

もしアダムが堕落しなかったとしても、キリストは受肉したであろう―中村穣『信じても苦しい人へ』

1.もしアダムが堕落せず、十字架においてアダムとその子らの罪を償う必要がなかったとしても、キリストは人となられたことだろう。それは、神が創造において目指しておられた究極の神の王国の完成という目的があるからである。

 神の王国の完成について、ローマ書8章29節は「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」という。キリストが神の家族の長子となられるために、キリストは人性をとる必要がある。私たちは長子キリストに連なる兄弟姉妹として、父なる神と交わるのである。黙示録22章にあるように、キリストが神の家族のかしらとして神の王国を相続する王となり、私たちがその共同相続人である王となるためには、私たち人間が堕落していなくても、キリストは人性を取りたまう必要がおありなのである。古代教父エイレナイオスは、すでに『使徒たちの使信の説明』において、少しばかりこの点について触れている。

御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。(黙示22:1-5)

 

2.ところで、中村穣『信じても苦しい人へ』(いのちのことば社)は、私たちが主観的・自己中心的・閉鎖的信仰を脱して、神からの愛を受け入れる客観的信仰に転じることの重要性を教え、自分の弱さや罪によって揺るがない神の愛を受けてこそ、私たちは隣人愛へと開かれて行くことができると教えている。これはとても大切な指摘である。

 だが、61章「アダムが罪を犯さなかったら、十字架は存在しないのか?」における記述は誤りであろう。著者は次のようにいう。

「イエス様の十字架は、人間の罪の赦しのためだけにあるでしょうか。イエス様が罪を赦すためだけなら、神ですから、天から罪を赦すと宣言するだけで人は赦されたはずです。でも、イエス様がこの地上に来てくださったのは、それ以上の意味があるのです。それは、罪ある者に愛をもって寄り添うためです。愛を私たちに示すために十字架はあるのです。どうしても神は私たちのもとに来られる必要があったのです。」(127頁)

 ここには二つ誤りがある。第一は、「イエス様が罪を赦すためだけなら、神ですから、天から罪を赦すと宣言するだけで人は赦されたはずです。」という文についてである。聖書はいう。「神はこの方(筆者注:イエス様)を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。」(ローマ3章25節)神はご自身が公正な審判者であるから、犯された罪を不問に付することはせず、神の聖なる怒りをなだめるささげ物を公に示す必要がおありなのである。神だからといってその権限でもって、何の根拠もなく犯された罪を赦すわけには行かない。神は公正なお方であるゆえである。流行の無限抱擁的神観では、聖書が述べているこの峻厳な事実は理解できない。

 第二の誤りは、「罪ある者に愛をもって寄り添うため」「愛を私たちに示すために十字架はある」とする点である。キリストの十字架の犠牲が神の愛のあらわれであることは、いうまでもなく聖書が述べる事実である(1ヨハネ4:10)。しかし、もしアダムとその子孫が堕落しなかったなら償うべき罪がないのであるから、キリストが十字架にかかり給うことはなかった。

 しかし、たといアダムが堕落しなかったとしても、神にはどうしても私たちと同じ人性を取る必要があったというのは事実である。それは、「1」に書いた通り、キリストが長子となって神の家族を完成し、神の子たちが長子キリストとともに相続人となって神の王国を完成するためである。

 中村氏の本は私たちの信仰のあり方について、とても重要なことを教えている本なので、この第61章の誤りは残念というほかない。聖書以外、人間の書くものである以上、誤りが含まれうるのはやむをえないのだが。中村氏が、これを「アダムが罪を犯さなかったら、受肉はなかったのか」と書いてくださればよかったのに、と思う。