苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

霊においても、知性においても  (賛美のことば)

「私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。」1コリント14:15


 賛美歌とはメロディを伴う祈りです。祈りであれば、知性が伴っていることがたいせつです。さもないと、主が戒められた「異邦人のように意味もなく同じ言葉を繰り返す」呪文になってしまうでしょう。ところで、『讃美歌』や『聖歌』の歌詞は文語体なので、現代人には難しい面があります。たとえば讃美歌3番の1節と4節。

1 あめつちの御神をば
  ほめまつれ 人の子よ
  我らが主の みとのこそ
  照り輝け いやはえ
3 ちりひじに なりし身は
  主に頼る ほかぞなき
  代々変わらぬ み恵みや
  わが御神よ わが父よ

 「あめつちの御神」は「雨土の御神」でなく、「天地の御神」です。「我らが主のみとの」の「みとの」は御殿、つまり、神の御住まいのことです。ここでは神の民が集い礼拝をささげている、礼拝堂を意味しているのでしょう。また、「ちりひじになりし身」とは、「塵泥に成りし身」つまり「塵泥から出来ている私」という意味です。私たちは塵泥(アーダマー)から造られたアダムです。
 難しさは用語だけでなく、文法にもあります。たとえば、1節の「われらが主の御殿こそ、照り輝け」というのを、御殿に対して「照り輝けよ」と命令していると思ったら、誤解です。これは「こそ→已然形」の係り結びの強調語法ですから、正解は「私たちの主の御殿は、いよいよすばらしく照り輝くよ!」と強調しているのです。
 係り結びは2節「主に頼るほかぞなき」の「ぞ→なき(連体形結び)」でも用いられています。やはり強調です。係結びは、連体形で結ぶ「ぞ」「なむ(なん)」「や」「か」と、已然形で結ぶ「こそ」がありますが、実際に強調語法として「讃美歌」で用いられているのは、「ぞ」と「こそ」だけであり、前者はほぼ意味の取り違えは起こらないでしょう。というわけで、注意しなければならないのは、「こそ→已然形」を、命令だと誤解しないということだけです。

 文語は口語にくらべて、簡潔・正確に内容を伝えることができますが、現代人にはなじみが薄いので、文語の賛美をもちいるならば、牧師はそれを信徒にその意味を正しく教える責任があります。