苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン5月29日 聖なる聖なる聖なる

イザヤ6:3
文語訳「たがひに呼いひけるは聖なるかな聖なるかな聖なるかな萬軍のヱホバ その榮光は全地にみつ」

口語訳「互に呼びかわして言った。
聖なるかな聖なるかな聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ』」。

新改訳「互いに呼びかわして言っていた。
  『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。
  その栄光は全地に満つ。』」

新共同訳「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」

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 日が暑くなるまえに散歩をすませて帰宅して、メモ。有名な青年イザヤの再召命の場面。神殿で呼び交わしているのはセラフィムという守護天使。「聖なる聖なる聖なる」という三度繰り返される表現は伝統的には、父子聖霊の三位一体を暗示すると読まれてきたので、讃美歌に「聖なる聖なる聖なるかな・・・」と反映されている。
 イザヤは主の聖にふれて自分が到底神のきよいことばを取り次ぐにはふさわしくない汚れた唇の者だと認識して、「わたしはもうだめだ」と叫んで、その唇を燃える炭火でジュッと焼かれて、「だれがわれわれのために行くだろう」という神の再召命の御声に応じて「はい、わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と立ち上がる。すると、彼を遣わす主の声は、いかに熱心にみことばを宣伝しようと、イスラエルは頑なになるだけだ、だが行けというなんともつらい内容だった。イザヤ書6章から伝道者としての召しの確信を得たという神学生がときどきいる。「前後の文脈を読んだのかなあ、たいへんだなあ」と内心思う。だが、口には出さない。ああ、ここで出してしまった。
 主イエスは、種まきのたとえのあとで、このイザヤ書6章を引用する。マタイ13:14,15。たとえを悟りえないのはイザヤの預言の成就だ、と。
 また、あるときは、イザヤがあの神殿で見た栄光は主イエスの栄光であるともある。ヨハネ12:38-41。
 神のみことばのしもべは、有能な弁舌家ではない。神の聖の前に、己の罪と限界を徹底的に悟らされた者こそが、神のみことばのしもべとしてふさわしい。モーセは40年間羊飼いをしてその雄弁を失ってはじめて主の召しを受け、イザヤは炭火でその雄弁な舌を焼かれてはじめてみことばのしもべとなった。