(本稿は、2009年3月28日、小海キリスト教会の修養会で話したことです。藤本満先生に読んでいただいたら褒められたので、もしかしたら、諸教会の役に立つかもしれないと思い、ここに載せておくことにしました。なお、1の内容は、神学生時代に友人の白石剛史先生に教わったことです。)
1.賛美とは
カルヴァンは「賛美とは音楽をともなった祈りである」と言った。だから、神様に喜ばれる賛美とは何であろうと考えるには、祈りについての教えを聖書から学ぶことが有益である。祈りの原則はことごとく、賛美の原則に適用される。主が教えてくださった祈りの原則を賛美に適用してみよう。
(1)人にではなく、神に向かって賛美する
「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」マタイ6:5
(2)公の場だけでなく、日常的に賛美する
「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」マタイ6:5
(3)歌詞の意味を理解して賛美する
「 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」マタイ6:7
(4)神に信頼して(信仰をもって)賛美する
「だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」マタイ6:8
(5)自分の願い以上に、まず神をほめたたえる
「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」マタイ6:9,10
(6)率直な願いをもって賛美する
「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」マタイ6:11
主は霊的なもののみならず、物質的な必要も主は満たしてくださる。
(7)隣人と和解して賛美する
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」マタイ6:12
(8)悪魔の試みを退けるためにも賛美する
「 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕マタイ6:13
2.歌詞と音楽
(1)音楽の効用と危険性
音楽の賛美における効能は、知性だけでなく感情や意志にまで働きかけて我々を神賛美にかきたてることにある。反面、音楽は人をかなでられる音曲に酔っ払わせて、神賛美を忘れさせ、音楽自体や演奏技術を賛美するという偶像礼拝に陥らせてしまうことがある。特に、現代は歴史上例を見ないほど異様に音楽文化を高く評価する時代であるだけに注意をしなければならない。
「主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。・・・中略・・・海の巨獣よ。すべての淵よ。火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行うあらしよ。山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。」(詩篇148:3−10)賛美は人間のみの特権ではなく、全被造物の務めである。山々や動植物はことばを用いずに賛美している。このことから推論すれば、歌詞を伴わない楽器演奏のみによる神賛美も不可能ではない。
けれども、ことばを伴わない賛美には、太陽の輝きや森のざわめきや小鳥のさえずりや白銀の山などの神賛美と同じ限界がある。それは、その賛美は創造主に向けられているかどうかが明確でないことである。不明確なために、多くの人間はこれらの被造物による賛美を誤解して、被造物自体を神々として崇めてしまう。同様に、歌詞を伴わない楽器演奏は、感動的であればあるほど音楽自体や演奏者を偶像化する危険がある。
アウグスティヌスはこの問題に誠実に取り組んだ。「このようにして私は、音楽がひきこむ快楽への危険と、にもかかわらず音楽が有している救済的効果の経験とのあいだを動揺しています。しかし、もちろんいまここで確定的な判決を宣言する気はありませんが、どちらかというと、教会における歌唱の習慣を是認する方向にかたむいています。それは耳をたのしませることによって、弱い精神の持ち主にも敬虔の感情をひきおこすことができるためです。それにしても歌われている内容よりも歌そのものによって心動かされるようなことがあるとしたら、私は罰をうけるに値する罪を犯しているのだと告白します。そのような場合は、うたわれているのを聞かないほうがよかったのです。」『告白』10:33:50
(2)歌詞にふさわしい音楽を
音楽は神を賛美することばに仕える。したがって、歌詞さえ聖書的なら音楽や演奏法は何でも良いというわけではない。その歌詞がめざしている敬虔な内容――神崇拝・悔い改め・感謝・献身など――に、会衆を導いていくのにふさわしい曲を工夫すべきである。
かつて賛美歌に流行歌のメロディが採用されたという歴史上の例をあげて、賛美歌につける音楽はジャンルなどなんでもよいのだと主張する人がいるが、いかがなものだろうか。音楽の心理的・教育的作用については、古代からピュタゴラスやプラトンや孔子も着目している。プラトンは『国家』のなかで、教育的な観点から音楽には善悪の性格があり、その性格が聴者に影響すると考えている。現代では音楽心理学によって、音楽がどのような心理的効果をもたらすかといったことも明らかにされつつある。
こうした研究もふまえて、賛美歌作者は歌詞の目的にふさわしいメロディを付けて欲しい。また、演奏者も、世のアーチストのような自己顕示目的の演奏は厳に慎み、その賛美歌の歌詞の意図を悟り、会衆の心の目が音楽でも音楽家でもなく神に注がれるために奏でてほしい。
3.賛美のことば―――プレイズ、文語歌詞のこと
人間と天使の賛美の特質は、ことばを伴っているという点にある。ことばは、我々の心を、偶像崇拝に傾きがちな盲目的情動から解き放ち、神に向けさせる。聖書も「霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。」(1コリント14:15)と奨励している。ことばによる賛美には必ずしも音楽が伴っていなければならないわけではなく、詩篇の朗読をもって神を賛美することは可能であることから明らかなように、賛美においてはことばが主役であって、音楽は従である。では、ことばが賛美においてその役割を果たすためには、どのような点に留意しなければならないであろうか。ごく簡潔に述べてみたい。
(1)やたらと繰り返さない。よく意味を理解して歌う。
異邦人のように同じことばをただ繰り返す祈りを主は戒められた。だから、感情の高揚を意図して同じフレーズをいたずらに繰り返す最近のプレイズの使用法は改める必要がある。またもう少し内容豊かな歌詞を考えてほしい。賛美歌における歌詞は霊とともに知性をともなって主を賛美するためにあるのだから、歌う者たちが神と神の御旨を理解するのを助けるものであることが望ましい。
(2)難解な文語表現の解説
他方、理解困難な文語歌詞には、異言の祈りと同じ課題がある。その課題を『新聖歌』から三つほど挙げて、対策を提案したい。
a.難解語彙。たとえば「みいつ」を三位一体と誤解している向きはとても多い。「みいつ」は御稜。威厳の意味。「悪魔のひとや」は「一矢」でなく「人屋」つまり牢屋の意味。
b.現代文法との違いである。文語文法における意志の助動詞「ん(む)」は、現代語では打消し助動詞と同じ形なので、「意味不明」と感じながら歌っている若者もいたりする。「ああ感謝せん」というと、「ああ感謝しない」というふうに誤解するのである。また、文語における接続助詞「ば」は、「未然形+ば」なら「もし――ならば」と仮定を意味し、「已然形+ば」なら「――なので」と理由を意味する。だから、「主にすがるわれに悩みはなし 十字架のみもとに荷を下ろせば」は、「下ろせ」は已然形だから、「十字架のみもとに荷を下ろすので、主にすがる私に悩みはない。」と確信に満ちた賛美である。「もし荷を下ろすならば」という仮定の意味なら、「荷を下ろさば」である。
c.ミス。『聖歌』における平仮名歌詞を漢字に書き換えるにあたって犯したミスがある。新聖歌49:5、399:1,2そして515:1の「見失せ」は「身失せ」(死去する)の間違いである。主は我らの罪のために死なれたのであって、見失われたのではない。
(3)口語化の必要
文語歌詞の難点についての対処法としては、一つは牧師がその日の礼拝で歌う賛美歌について、会衆に歌詞の説明をする時を設定するとよい。週報にメモするのもよい。第二に、賛美歌集の編者は難解語がある場合、歌詞に注をつけて欲しい。実際『新聖歌』では先述の「みいつ」「ひとや」に注が付けられているのはありがたい。そして、第三に文語は現代語に比して表現力が豊かで美しく捨てがたいものもあるが、やはり基本的には口語の歌詞に改訂していくべきであろう。神が、新約聖書を啓示するにあたり荘重な古典ギリシャ語でなく、平易なコイネーギリシャ語をお選びになったことを思い合わせれば、そう言わざるを得ないだろう。