苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン12月27日 主に用いられる人

出エジプト4:11
口語訳>
主は彼に言われた、「だれが人に口を授けたのか。おし、耳しい、目あき、目しいにだれがするのか。主なるわたしではないか。」

新改訳>
【主】は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、【主】ではないか。

新共同訳>
主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。

 翻訳上の異同で目につくのは、口語訳の「耳しい」「目しい」という「不快用語」が新改訳、新共同訳であらためられていること。
 かつてエジプトの王子という立場だったモーセは自信満々に自ら同胞ヘブル人たちの解放者を買って出たけれど、彼は退けられた。今、荒野で羊飼いとして40年間の経験の後、主から召しをうけたモーセは、到底自分にはできないとしりごみした。かつての弁舌や知識や技術や力や肩書きがことごとく剥ぎ取られて後、主はモーセをお召しになったのだった。自らに恃むところのあるうちは、主はお用いにはならない。彼は主のみこころでなく、自分のこころを行ってしまうから。神の僕にとって、自信を失うことは必須の課程。