苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン12月26日  空の鳥を

エレミヤ8:7
<口語訳>
空のこうのとりでもその時を知り、
山ばとと、つばめと、つるはその来る時を守る。
しかしわが民は主のおきてを知らない。

<新改訳>
空のこうのとりも、自分の季節を知っており、
山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、
わたしの民は【主】の定めを知らない。

<新共同訳>
空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。
山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。
しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない。

 翻訳上の異同のひとつは、文の切り方。口語訳は二文に切り、新共同訳は三文に切っているが、新改訳は一文に訳している。ヘブル本文は長い一文で、新改訳は原文が透けて見えるように一文で訳したのだろうか。もうひとつの特徴は口語訳、新改訳が単に「知らない」と訳したところを、新共同訳は「知ろうとしない」と訳した点。原文に照らせばqal形で、「知らない」である。新共同訳は訳しすぎ。
 鳥たちは神の定めのときをわきまえている。当地でも、つばめたちは秋の訪れとともに南方へと去っていった。鴨たちは、冬の訪れとともにいずこからかやってきて、今、千曲川の小海ダムのところに浮かんでいる。アラスカに住むムナグロチドリはアラスカが冬になると、片道4500キロメートルをハワイまで太平洋を一気に飛んでいくという。羅針盤GPSがあるわけでもないのに。神に造られた鳥たちは神の定めを知っている。
 それなのに人間は、神の定め(mishpatさばき)を知らない。全被造物が「虚無に服している」のだが、特に罪をおかしたアダムの子らの自らを万物の霊長であると誇りながら、その堕落ぶりはもっともはなはだしいのだろう。主イエスも、「空の鳥を見よ、野のゆりを見よ」と、むしろこうした小さな被造物を教師とせよと仰せられた。思い煩わず、神を見上げて、生かされているかぎりのいのちを生きよう。