苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・Ⅶ 善悪の知識の木

 昔、郷ひろみ樹木希林が「♪アダムとイブがりんごを食べてから・・・・♪」と歌う「林檎殺人事件」という曲がありました。男女の愛のもつれが事件の真相だということで「ああ、悲しいね。悲しいね。」と結ばれました。善悪の知識の木の実といえば、リンゴの絵が定番です。善悪の「悪」と「りんご」がラテン語同音異義語でmalumというので、こういう誤解が生じたのだろうといわれます。
でも、あの木自体が悪くて何か毒があって人が罪に染まったわけではありません。木は蜜柑でも林檎でも柿でもマンゴーでもパパイヤでもなんでもよかったのです。大事なことは、神があの木から食べてはいけないと禁じられたという事実です。「理屈ぬきで、神が禁じたという理由だけで食べてはいけない。」ということを受け入れるかどうかがテストされたのです。それはつまり、私は自分の理屈よりも、神のみことばを尊びますという姿勢があるかないかが試されたということです。神こそ私の主権者であって、私は神にお仕えしますということが求められたのです。
 この木が「善悪の知識の木」と呼ばれて禁断とされたことにも、そのことが現われています。神は、アダムに園にあるすべての木を人間にゆだねてくださったのですが、ただこの木だけはお許しになりませんでした。それは、この木が神に属するものであるということを意味していました。究極的な意味で、善悪の知識は神に属しているということです。造り主である神がものごとの善と悪とをご存知であり、ものごとの善と悪とをお定めになるのであって、被造物である人間は造り主のお定めになった善と悪とを受け入れて生きていくべきなのだということです。
 だから、善悪の知識の木から取って食べることは、神の主権を侵害することを意味していました。それは「私には神などは要らない。私が私の神なのだ。私がしたいことが善であり、私がしたくないことが悪なのだ。」という自律の意識の表現であり、神への反逆でした。
 悪魔は蛇を通して「あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」(創世3:5)と誘惑しました。実際、彼らが木の実を食べた後、神は「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」(創世3:22)とおっしゃいました。この二つの箇所で、「善悪を知るようになること」イコール「神のようになること」と表現されています。何が善であり何が悪であるかを知り、定めるのは、本来、神のなさることです。ところが、人が、神をさしおいて、自分で善と悪を定めようとするようになったことが、「神のようになった」と表現されているのです。
私の父は吉川英治の『宮本武蔵』が好きでした。父はよく、武蔵が一乗寺下がり松での吉岡一門との決闘にたったひとりで赴くとき、ある祠に勝利の祈願をしようとしたが、踏みとどまったという話をしてくれました。「神仏は敬すれども拝せず。それが男の生きる道だ。」というのでしょう。そんな影響もあってか、いやアダム以来の原罪のゆえというべきか、私はクリスチャンになる前、「神仏に頼ることは男として恥ずべきことだ。自分で善悪を判断し、自分の力で生きていくことこそ人間として立派なことだ。」と思っていました。
人間は神に頼らず自分で自分の道を定めて切り開いて生きていくべきだし、そのように生きることができるし、その選択の結果を他の誰かのせいにしてうらむようなことはしないという誇り、これがヒューマニズムの根本的原理です。フランク・シナトラが「すべては私の決めたままに〜♪」と歌い上げるとき、多くの聴衆はいい気持ちになるわけです。なかなか、そんなふうに潔く生きられませんから。ですが、クリスチャンはいっしょに気持ちよくなれません。「ちがうだろ。『すべてはみ神の決めたままに〜♪』だろ。」とつっこみを入れたくなるはずです。聖書は、「人間の自律」という驕りこそ、罪そのものだというのです。神がご自身の栄光のために創造なさった世界から神を追放し、人間の人間による人間のための世界にしようという生き方をすることこそ、アダム以来の罪なのです。
しかし、神を追い出してしまったら、ことの善悪の絶対的基準というものがなくなってしまいます。結局、だれか他人が決めた社会の善悪に従うか、自分が神になって自分が好むことを善、好まないことを悪にするほかなくなってしまいます。
 ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公の青年ラスコーリニコフは、ケチな老婆を殺害し、わずかな金品を奪いました。老婆殺しの動機はなんだったのでしょうか。彼の老婆殺しの動機は、彼が新聞に投稿した犯罪論とソーニャへの告白のうちに現われています。ラスコーリニコフによれば、人間は法律にひたすらしたがわねばならない凡人と、自ら新しい法律を立て一切の道徳的規範を踏み越す権利を持つ非凡人とに分けられます。それで、ラスコーリニコフは自分が「ナポレオンであるか、それともシラミにすぎないか」つまり、自分が非凡人か凡人にすぎないかを確かめるために老婆を殺害したというのです。「ぼくはね、ソーニャ、理屈抜きで殺したくなったのだ。自分のために、ただ自分のためだけに殺したくなったのだ。」
 「理屈ぬきで」ということばに、神を捨てた人間の悲惨が如実に表現されています。「理屈ぬきで」というのは、自分が神だといいたいのです。私が殺したいから殺した、それ以外の理由は要らないというのです。本来、人が善悪の知識の木から食べてはいけないのが、神の命令以外、理屈ぬきであったのと同じです。ラスコーリニコフは自分を神としているのです。
 「自らが新しい法律を定め、一切の道徳的規範を踏み越す権利をもつ」というのは、自分を神とすることにほかなりません。人は堕落したものの、創造主が人の心に律法を刻んでいらっしゃるので、ふつうは罪を犯せば良心の呵責に苦しむものです(ローマ2:15)。けれども、ラスコーリニコフは、神が心に刻んでくださった善悪の基準さえも踏み越えていく非凡な人間となることを望んだのです。
 「ラスコーリニコフは小説のなかにしかいないだろう。」昔、この本を知ったとき筆者はそう思いました。けれども、どうもそうではないようです。かつての凶悪犯罪の報道を聞けば、「カネが欲しかった。」とか「かくかくしかじかの理由で、被害者を怨んでいた。」との説明になるほどと納得したものです。ところが、最近の殺人事件での犯行の動機は、「むしゃくしゃしたから。」「別に誰でもよかった。」といいます。殺人の動機として自分の苛立ちや衝動のほかにどんな理由も要らないというのです。「俺が殺したいから殺した。ほかに何の理由がいる?俺が神なのだ。」というのです。殺人事件の真相は男女の愛のもつれよりも、さらに深い所にあるのです。善悪の知識の木の実を盗んで以来、人は神になりたいという罪深い情念の虜になってしまったのです。「悲しいね」ではすまない、恐ろしいことです。

<ブログ版追記1>
 人間の自律が罪だというと、人間は他律的に生きるべきだということになるのかというとそうではありません。聖書はキリスト者の救われた歩みには、自由という賜物が伴うと教えています。
「 3:17主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 3:18わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(2コリント3:17-18)
 外的な石の板に刻まれた律法の下にあるかぎり、その人は他律的な状態に置かれ、縛られた状態です。しかし、キリストにあって内側から御霊による再生によってもたらされた命は、人が内側からつまり自発的に神のみこころをなすように導かれるのです。これは他律的heteronomosではなく、さりとて自律的autonomosというのでもないので、ある人は神律theonomosということばを用いました。

<ブログ版追記2>
 もうひとつ気になっていながら、十分にはわからなくて書いていないのが「いのちの木」です。神はアダムの堕落前、このいのちの木からは取って食べてはならないとおっしゃいませんでした。だから、アダムは食べていたかもしれないし、まだ食べていなかったかもしれません。どちらかわかりません。
 私がずっと考えているのは、この二本の木は、「善悪の知識」による生き方と、「いのち」の生き方は違うということを示しているのではないかということです。善悪の知識による生き方というのは、神をぬきにして自分で善悪の知識表みたいなものをもっていて、それで生活するという生き方です。それは一見すると、非の打ち所のない生き方なのですが、いのちのない生き方であり、神との交わりの欠けた生き方なのです。いわば、放蕩息子の兄タイプの生き方。
 「いのち」の生き方というのは、神との交わりにおいて生きる生き方ということを意味しています。ダビデという王はかなりハチャメチャで欠けだらけのところがありましたが、彼は神の心をつかんでいました。
 聖書にご自分をあらわされた神は、生ける神、人格の神です。そのことが、この「善悪の知識」による生き方と、「いのち」の生き方に関係していると思うのです。
いのちのことば社『新聖書辞典』は「善悪の知識の木」の項で「霊的にこれを理解すれば、いのちの木とは信仰の木であり、神を信じ、神を愛し、神に従う心構えの木であり、善悪の知識の木とは、自分の知恵で何が善で何が悪であるかをわきまえる道徳的判断の木である。」と簡潔に説明しています。本質を突く説明ではないでしょうか。