創世記3:1−7
2016年5月8日 苫小牧主日夕礼拝
1 神のことばを曖昧にとらえていると
3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
(1)蛇
神とその御子の似姿として造られ、園を神のみこころにしたがって耕し守るようにと任務をいただいたアダムとその妻だったのですが、彼らの有様をみていて嫉妬をした存在がいました。「蛇」です。この蛇は、黙示録12章9節に「悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」とありますから、サタンを意味しています。ただ、3章1節に「神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで蛇が」とあることから見ると、悪魔がこの蛇に取りついて人間を誘惑したのだと読むのがより正確な読み方であろうと思います。サタンが動物に憑依することがあるのかといえば、新約聖書では悪霊のレギオンの集団がブタに憑依したという例がありますから、蛇にとりついたとしても不思議ではありません。
サタンというのは、もともとが神のしもべとして創造された御使いの中の身分の高い者であったようです。そういう天使たちが、自ら「いと高き方のようになろう」と思い上がった結果、堕落してしまったということのようです。古代教父オリゲネスは、イザヤ書14章におけるバビロンの王の高慢に対する神のさばきについての箇所(14章12-15節)が、サタンの高慢と堕落を暗示していると指摘しています。サタンは高慢になり神のように人間に崇められ拝まれたいという罪深い欲望ゆえにさばきを受けました。そこで、人間をも自分と同じ高慢の罪に引きずり込み、自分を拝ませ、自分と同じようにゲヘナに誘い込もうとするのです。主イエスを誘惑したときも、サタンは「もし、わたしを拝むなら・・・」と言ったでしょう。もろもろの偶像崇拝宗教の背後にはサタンやその手下である悪霊がいます。サタンとその手下たちは神々として崇められたいので、人間が刻んださまざまな偶像にとりついて礼拝されて悦に入っているのです。サタンの性格的特徴、それは高慢ということです。
サタンの特徴をもう一つ挙げるならば、彼は神のことばをよく知っているけれども、その神のことばを捻じ曲げたり、水増ししたりして使用するということです。サタンはいいました。
「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
実は、サタンは女に質問するまでもなく、神のご命令をよく知っているのです。神は、実際には、
「園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、園の中央にある善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたはかならず死ぬ」
とおっしゃったのです。その神のことばを利用し、わざと捻じ曲げて
「園のどの木からも食べてはならないと言われたのですか。」
と女にささやきかけたのです。園に食べてよい木が100万本あったとするならば、食べることが許可されている999,999本ではなく、食べてはならないたった1本に女の注意をたくみに向けさせたのです。神が恵みによって与えてくださった祝福を数えるよりも、人間に取ることを許されなかった、たった一本の木に最初の女性の注意をひきつけました。恵みを数えるよりも、わずかな欠けに注目させたのです。私たちが感謝することを忘れて、欠けていることにのみ注目して、不平を言うようになると、サタンとその手下の悪霊どもの誘惑にひっかかっているかもしれない危険な兆候です。
(2)隙・・・・あいまいなみことばの記憶と理解
さて、このように蛇の誘惑をうけて、女はなんと答えたでしょう?彼女の返答を見ると、すでにサタンの罠に陥りかけていることがよくわかります。彼女は神のことばに自分勝手に付け加え、ニュアンスを変えてしまいました。みことばの不正確な記憶と不正確な理解が、サタンに付け込まれるすきでした。
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
神は「それを食べてはならない」とおっしゃいましたが、「触れてもいけない」とはおおせにはなりませんでした。彼女は、神のことばに自分のかってな言葉を付け加えてしまったのです。「それに触れてもいけない」というと、どうやら彼女はその木に一種の魔力があるように受け止めていることがうかがわれるでしょう。
また、神は「あなたがたは必ず死ぬ」と警告なさったのに、彼女は「死ぬといけないからだ」と言い換えました。なんとなく水増しされた印象です。彼女の中に、『ほんの少し食べるくらいなら良いかもしれない』というような隙が彼女の心のうちに生じていることが読み取れるでしょう。
私たちが、自分の欲望にしたがって、神のことばを水増ししたり、取り除いたりするとき、サタンの罠に陥るのです。神のことばがYesということはYesであり、神のことばがNoということはNoなのです。自分に都合よく付け加えたり、取り除いたりしてはいけません。彼女がこのような間違いを起こした原因として考えられることは、一つには彼女自身がアダムから伝え聞いた神の命令のことばを上の空で聞いていたからかもしれません。あるいはアダムが神のことばを正確に妻に伝えていなかったからかもしれません。いずれにせよ、神のことばを正確に理解するということが、サタンに対する勝利の秘訣のひとつです。
2 蛇の誘惑・・・三つの邪欲に
(1)サタンの誘惑
女がまんまとサタンの話術に乗ったので、サタンは「すきあり!」と見て、大胆に彼女に迫ります。
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
サタンが何を言っているのかわかりますか?サタンは、「神はウソツキだ」と主張していのです。 サタンは最初から人殺しで嘘つきですと主イエスがおっしゃいました。サタンは偽りの父とも呼ばれます。サタンにとってはウソをつくことが、その本性です。通常、人間はうそをついてしまうことがあっても、そのことに良心の痛みを感じますからドギマギしてしまうものですが、サタンの場合、また、サタンにその魂を売り渡してしまった人の場合には、ウソをついても何の痛みも痒みも感じず、あたかも呼吸をするようにウソをつき、歌を歌うようにウソをつくことができるのです。そうして、このとき、偽りの父であるサタンは、よりによって真実の神を嘘つき呼ばわりするという冒涜の罪を犯すのです。
さらにサタンは続けます。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
サタンは何を言っているのでしょうか?彼は、「神はけちで嫉妬深い奴だ」と非難しているのです。サタンは「神は、人間であるあなたが神のようになるのを嫌がっているけちな奴だ」と非難しているのです。ひどいことばです。けれども、すでに女はサタンの言うなりでした。彼女の目の欲、肉の欲、虚栄心は善悪の知識の木の実に釘付けになっています。そして、のどの奥でゴクリとツバキを呑み込みました。
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。
彼女はすでに、どうしても食べたいという肉の欲、食べたらどうなるだろうという好奇心つまり目の欲、そして神のように賢くなりたいという虚栄心という欲望の虜になっていました。欲求というものは、もともと人間が生きていくために神がくださった賜物です。食欲がなければ人は栄養不良になったり餓死したりしてしまうでしょうが、健康よりも食べることのほうが大事になってしまうとこれは邪欲です。好奇心がなければ人は物事を探求しないでしょうから本来好奇心はよいものですが、好奇のあまり麻薬や覚せい剤や命を脅かす危険なことに手を出すようになるとそれは邪欲です。向上心があって人は努力をするものですが、それが分を越えてしまうと虚栄になってしまいまして、これは邪欲です。
サタンは私たちの欲望を刺激して誘惑するのです。
3 結果
さて、神から食べてはならないと言われていた善悪の知識の木を食べた結果、どういうことが二人に起こったでしょうか?本日は、その前半だけ見ておきましょう。
(1) 女は蛇のようになった
まず、起こったことは、「それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」ということです。蛇は、あの実を取って食べたら、あなたは神のようになれると言って誘惑しましたが、彼女が実際に取って食べたら、彼女はサタンのようになりました。サタンのように、夫を誘惑して、夫にも食べさせてしまったのです。悪魔の誘惑に乗るならば、人は悪魔のようになって、悪魔の手伝いをすることになってしまいます。
(2)欲望をコントロールできなくなった
次に、彼らは今まで恥ずかしいと思わなかった裸を恥ずかしく思うようになり、いちじくの葉で隠すようになりました。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
目が開かれたというのは、それまで盲目だったが見えるようになったという意味ではありません。裸が恥ずかしいと感じるようになったという意味です。もし彼らが禁断の木の実を食べたことを恥じているならば、彼らはいちじくの葉で口を覆うマスクをつけたでしょうが、彼らが隠したのは腰でした。なぜか?それは、彼らが性器を恥じたからです。なぜ堕落前は性器を恥じる必要がなかったのに、神に背いて後は性器を恥じる必要が生じたのでしょう。このことについては、聖アウグスティヌスが『神の国』の中で詳しく論じているのですが、結論をいえば、肉体が自分の意志のいうことを聞かず、勝手にふるまうようになってしまったからです。つまり、欲望を意志をもってコントロールできなくなってしまったのです。
神に背を向けて以来、人間は肉の欲だけでなく、目の欲、虚栄心といったものも、自分の意志でコントロールすることができず、欲望に振り回されることになってしまいました。人間は本来、神の主権の下に身を置くべきものであり、その時には、人間自身の中で意志は、その下にもろもろの欲求を置いてコントロールすることができたのです。しかし、人間が上にある権威である神に背いたとたん、人間の内部でももろもろの欲求が精神に反逆することとなったのです。神の下におるべき人間が、上にある神に反逆したとき、人間の内部において精神の下にあるべき欲求が、上にある精神に反逆することになったのでした。
パウロはそうした苦悩について告白しています。ローマ7:15
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」
(3) 霊的死
実は、アダムと妻が禁断の木の実を食べてしまった、その瞬間、彼らはすでに死んでしまったのです。肉体はまだ生きていましたが、すでに、いのちの源である神との交流が絶えてしまって、彼らは霊においてすでに死んでしまったのでした。死んでしまったので、もはや自分自身を自分でコントロールする力すらなくなってしまったのです。そして、空中の権を持つ支配者であるサタンの圧制の下に置かれるものとなってしまいました。新約聖書エペソ書は次のように言っています。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(エペソ2:1,2)
結び
1.サタンというものが実在するのですから、私たちは霊的な目を開いて、欺かれないようにすることが大切です。肉の欲、目の欲、虚栄心にコントロールされないように中止すべきです。
そのためには、聖書のことばを信じて、しっかりと自分のうちに蓄えておきましょう。そうすれば聖霊が働かれて、あなたが語ることばを与えてくださいます。
2.最初の人アダムと妻は、罪を犯してしまったとき、いちじくの葉でもって神の前に恥を隠そうとしました。チャールズ・ホッジという偉い神学者は、人間はアダムの堕落以来、自力救済主義者になってしまったと言いました。このイチジクの葉っぱの腰覆いは、その現れです。
しかし、そんなもので神の前に恥を隠すことはできません。すぐにしおれてしまうでしょう。神の前に、ありのままの惨めな姿で、神様、私はこんな罪を犯してしまいましたと白旗を揚げて出ることが大事なことです。神は、私たちを恵みによって、ゆるし清める道を用意してくださいました。主イエスは、私たちの罪を赦すために十字架に苦しんで死んでくださいました。主イエスを信じる私たちは、神との交わりのうちに招かれています。