苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ケルビムが見ているもの

創世記3:22-24、 出エジプト25:20 -22、ローマ3: 25

2020年11月23日 HBI牧田吉和先生特別講義の日のチャペル

 

22,神である主はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」

23,神である主は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。

24,こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。(創世記3章22-24節)

  

20,ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『宥めの蓋』の方を向くようにする

21,その『宥めの蓋』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしの板を納める。

22,わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。出エジプト25:20-22)

  

神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。(ローマ3: 25)

 

1.神のように、善悪を知るように・・・自律的人間観

 

 善悪の知識の木の実を盗って食べたアダムとエバは園から追放されることになります。なぜでしょうか。「3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」ということが、その理由です。

神は人はわれわれのひとりのようになった」つまり、「人間が神のようになった」とおっしゃいます。どういう意味でしょうか?

本来、「何が善であり何が悪であるか」ということは、創造主である神が知ってお定めになることであり、被造物である人間は、神の定めた善と悪に従って生きるべきものです。ところが、人は、己の分をわきまえず、自分で善悪を知っていると思い上がりました。「俺が好むことが善であり、俺が好まないことは悪だ」というのです。人生の王座から神を押しのけて、自分が王座に座って善悪を定めようとするものとなったのです。「神なしの人生観」を志すようになったのです。この神を、人生の王座から押しのける自己中心こそが、罪の根本的性質です。

その他のもろもろの罪と悲惨は、この自己中心性から生え出て来たものです。その証拠に、親不孝、殺人、姦淫、盗み、偽証、貪欲などもろもろの罪の根っこには、必ず自己中心な思いがあります。ナイフで人を刺し殺そうとする人が、「この人、グサリとやられたら、どんなに痛いことだろう。この人の親や妻や子供は、この人が死んだら、どんなに悲しむだろう。」と思いやりを持っていることはありません。ただ、自己中心の怒りの感情に任せて、殺人を犯します。盗みも、偽証も、親不孝もみなそうです。

しかし、「私は神に頼らずとも、立派に生きて行くことができる。実際、私は親不孝も殺人も姦淫も偽証もしたことがない。」という人もいるでしょう。しかし、「神に頼らずに生きていける」という、その思いこそ、神の前では、傲慢という罪です。事実、全ての人は毎日、食べ物も水も空気もいのちそのものも、神に供給していただいて生きています。神に頼らないで生きられる人など一人も存在しません。もし、神に背を向けていながら、親不孝も殺人も姦淫も偽証もしたことがないという人がいたら、それは、たとえて言えば、運転が上手な無免許のドライバーです。その人はどんなに運転が上手であっても、有罪です。どんなに立派な生活をしていても、神に背を向けていたら有罪です。

 

2.ケルビムが監視しているのは

 

 ちりから造られた被造物にすぎない人間が、神なき人生こそ立派なことだと思いあがって、様々な罪を犯し、互いに傷つけあう悲惨な状態に陥りました。そこで、神は人間をいのちの木から遠ざけるため、園から追放します。そして、彼らがいのちの木から取って食べることがないように、いのちの木への道を守るためエデンの園の東にケルビムという御使いが、番兵として配置されました。ケルビムは炎の剣をもって、不用意にいのちの木に近づき神の聖をけがそうとする者を斬り伏せるのです。

 創世記3:24 こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。

  ここにジレンマがあります。聖書において「いのち」とは神との交わりうる状態を意味し、「死」とは神との断絶を意味しています。ところが、罪ある者が罪をきよめられないまま、神に近づくならば、神の聖さに撃たれて死ななければならないというジレンマです。「いのち」を求めて神に近づきたいけれど、神に近づくと、己の罪ゆえに神に撃たれて死んでしまうのです。実際、旧約聖書を読むと、神の御顔を仰ぎ見てしまった人々は、「自分は死ぬ」と叫んでいます。青年イザヤや神殿で神の臨在にふれて言いました。「ああ私はもうだめだ。私はくちびるのけがれたもので、くちびるのけがれた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(イザヤ6:5)

 

ケルビムは、主の御座を護る天使です。後にモーセの時代に、神が啓示された幕屋の設計によれば、ケルビムは幕屋の周囲の幕(出エジプト26:1)、そして、聖所と至聖所を隔てる垂れ幕(出エジプト26:31)に織り出されました。そして、至聖所に置かれる契約の箱のふたの上に、黄金の彫像を作って配置されることになります(出エジプト25:18-20)。幕に織り出されたケルビムの図も、宥めの蓋の2つの彫像も、「ここは神の臨在される場である。不用意に近づくな!」という警告を意味します。

今日は、特に、幕屋の最も奥の至聖所に置かれた、契約の箱の宥めの蓋の上に配置されたケルビムに注目しましょう。契約の箱のふたは、カポーレットといって、新改訳聖書2017は「宥めの蓋」と訳しています。この二つのケルビムの間から、臨在する主の御声が聞こえたのです。

20**,ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『宥めの蓋』の方を向くようにする

21**,その『宥めの蓋』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしの板を納める。

22**,わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。出エジプト25:20-22)

注意すべきは、ケルビムは「宥めの蓋の方を向くようにする」(20節)とある点です。ケルビムはなぜ上を向かず、前を向かず、横を向かず、うつむいて「宥めの蓋の方を向くように」造らねばならなかったのでしょう?イザヤ書6章に、青年イザヤが神殿で主の臨在にふれたとき、天使のセラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。その栄光は全地に満ちる」と言いながら、その翼で顔を覆っていたとあります。神の聖臨在を畏れたからです。ケルビムもまた、神の聖なる臨在を畏れたのでしょうか。いや、そういうことではないでしょう。

ここではむしろ、ケルビムが「宥めの蓋の方を向くようにする」ことが強調されています。ここが肝心です。彼らは宥めの蓋をじっと見つめているのです。宥めの蓋に注がれる犠牲の血が正しいものであるかどうかを監視しているのです。レビ記16章14-16節にこうあります。

「それから、雄牛の血を取り、指で『宥めの蓋』の東側に振りまき、また、指で七度その血を『宥めの蓋』の前に振りまく。アロンは民のために、罪のきよめのささげ物である雄やぎを屠り、その血を垂れ幕の内側に持って入り、この血を、先の雄牛の血にしたように、『宥めの蓋』の上と『宥めの蓋』の前にかける。彼はイスラエルの子らの汚れと背き、すなわちそのすべての罪を除いて、聖所のための宥めを行う。」(レビ16:14-16)

 正しい血が、宥めの蓋にかけられているかどうか、ケルビムという天使は見張っているのです。聖なる神に近づこうとする者は、罪を償うにふさわしい犠牲をささげ血を流さなければなりません。それを監視するのがケルビムの役割です。そのことを象徴するために、宥めのふた(カポーレット)をじっと見つめているのです。

 

3.キリストの代償的贖罪

 

ケルビムが見つめている宥めの蓋カポーレットは、ギリシャ語訳聖書ではヒラステーリオンと訳されることになりました。そして、もともと宥めの蓋を意味したヒラステーリオンは、宥めのささげ物そのものを意味することにもなりました。新約聖書では、ヘブル書9章5節と、そして、ローマ書3章25節に出て来ます。「ヒラステーリオン」といっても、ローマ書では「宥めの蓋」ではなく、文脈上主イエスの犠牲そのものを指しているので、「宥めのささげ物」と訳されています。

25,神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。(ローマ3: 25)

 ケルビムは、聖なる神の怒りをなだめるために、神の御子キリストがゴルゴタの丘で流される血潮をじっと見つめていました。いわばゴルゴタの丘が、宥めの蓋カポーレットでした。そして、十字架で流された御子の血潮は、神の聖なる怒りを宥め、私たちの罪の償いとなったのです。

だからこそ、私たちは罪ある者でありながら、その罪をゆるされて、いのちの木への道を進んで、神とのまじわりへと招かれることができるのです。キリストの聖なる血潮が、私たちの罪の代償となって、神の怒りを宥めたからこそ、私たちは神と交わり、永遠のいのちを享受することができます。代償的贖罪の真理です。

 

 ところが、16世紀の反三位一体論者ソッツィーニ主義者は、キリストの代償的贖罪の教理を嫌悪し、天の父が、罪人の代わりに御子を罰したという教理は、「不道徳、支離滅裂、非理性的そして不可能である」と罵倒しました。また18,19世紀の自由主義神学の父シュライエルマッハー以降の自由主義神学性善説に立ち、キリストが山上の説教で説かれた愛の道徳にみなが倣えば地上に神の国を来らせることができると教え、神は、私たちの罪を赦すにあたって、犠牲など求めず、ただ悔い改める者たちを赦すのだと今日も教えています。

 『殉教と殉国と信仰と』という、高橋哲哉東大教授と森一弘司教の対談があります。高橋哲哉国家主義愛国心における殉国精神に警戒感を持つ人です。対談の相手の森一弘神父ローマ・カトリックの司教であり、著名な新約聖書学者です。

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高橋:・・・キリスト教で殉教が語られるときに、イエスが十字架上で刑死したこと、これを「犠牲死」ととらえるのかどうかが問題になるのではないでしょうか。・・・しかし、このイエスの死を犠牲死ととらえる見方そのものについて、キリスト教思想の中でも議論はあったと思いますが、もっときちんと検討しなおす必要があるのではないでしょうか。
森神父・・・結局、キリストの十字架を生贄とか犠牲としてとらえると、神理解が色々歪んできてしまうんです。
高橋:やはり、そう思われますか。
森:キリストの十字架を「犠牲」というかたちで説明するのは、先ほど申し上げた正義、交換の正義と言う視点が、聖アンセルムス(1033-1109)とか トマス・アクィナス(1225-1274)あたりで神学の中にどんと入ってきてしまった論理です。それがのちに主流になって今日まできてしまった。
 ところが、キリストの十字架を「犠牲」としてとらえてしまうと、神の姿が歪んできてしまう。それは現代の神学者たちも指摘しているところです。・・・ちなみに、福音書をずっと読んでみても、福音書の中にキリストの十字架を「犠牲」とする、あるいは罪のあがないとするような言葉は全く出てきません。ですから、そういう意味で、現代はもう一度、真正面から神理解、そしてキリスト教の教義理解に取り組まなければならないと思っております。(以上、98-99ページ)

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 森神父の主張は、明白な虚偽です。キリストの十字架の犠牲死は、創世記第三章の神が手ずから用意された皮衣に始まり、キリストの生涯において成就した贖罪のわざです。福音書おいてイエスは言われました。

マルコ10:45 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

マタイ26:28「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」

 悪魔は、今日の日本でも、良心的と評判の東大教授や著名な聖書学者をも用いて、「十字架のことば」、すなわち、キリストの代償的贖罪という真理を覆い隠すのに躍起となっています。

 

結び

 蛇の誘惑によって、人は神ぬきに、自分で善悪を決定できる人生こそ誇り高い人生だと思い込むようになりました。しかし、神を人生の王座から追い出した自己中心こそ、あらゆる罪の根であり、傲慢と言う罪の本質です。

 しかし、神は、そういうみじめで傲慢な私たち人間をお見捨てになりませんでした。旧約時代は、神の臨在の前で、宥めの蓋に注がれた犠牲の血は、後の日に人類の罪を償うメシヤの到来を告げるものでした。時満ちて、二千年前、ついに神の御子は人となって来られました。キリストは、神と人との唯一の仲保者として、あのゴルゴタの丘でご自分を犠牲として神にささげることによって、私たちに、いのちへの道を開いてくださったのです。

私たちはサタンと時代の流行に、欺かれてはなりません。どこまでも聖書啓示に根差す、神の王国の前衛に立つ説教者として、キリストの十字架のことばを叫ぶ者でありましょう。