教会の篠原さんたちと、春のピクニックの下見のために安曇野にでかけました。この季節は安曇野には白鳥が飛来しています。佐久の千曲川に来るのはほんの数羽のようですが、安曇野の白鳥は群れを成しているといいますので期待して行きました。
安曇野を流れる犀川の一部分が白鳥湖と呼ばれています。「こちら白鳥湖」という小さな看板を見つけて車がかわせないような細い道をはいって行き、たどりついた白鳥湖には鴨や鵜はたくさんいましたが、白鳥は十羽ほどと少し肩透かしを食った感じでした。その時間、白鳥たちはすぐ近くの田んぼに草をついばみに出かけているようでした。しばらく白鳥湖で水鳥たちをながめたあと、そちらの田んぼに移動しました。
今度こそと期待して、白鳥たちがいるという田んぼに行くと、いましたいました。二反ほどもありそうな田んぼにたくさんの白鳥たちがいて、緑の草をついばんでいます。あたりの田んぼはみな枯れて、薄く雪が積もっていましたが、その田んぼだけに緑があります。おそらく、白鳥たちのために麦を蒔いてあるのでしょう。あかるい色のダウンコートを着込んだ妻はしゃがみこんで飽きることなく白鳥を眺めていました。実に楽しげです。妻のいうところでは、その田んぼに集まっていた白鳥はおよそ300羽ほどでした。
白鳥たちは人が三メートルほどの距離にいても逃げもせず、すわりこんだり草を食べたりしています。一度だけ筆者が「コーイコイコイコイコイコイ」と白鳥おじさんよろしく声を張り上げたときだけ、驚いて、なぜか私のほうではなくて、白鳥たちは妻に視線を集めていました。「おたくのだんな、静かにさせろよ」という感じかなあ。白鳥は大きさは一抱えというサイズですが、信州に飛来するのはコハクチョウなのだそうです。そのからだはクリームのようで、しなやかな頸もじつに優雅な姿をしています。その優雅なからだに似合わず、潜水夫のゴムの真っ黒な足ひれでペタペタ歩くのがおかしいね、と妻と笑いました。あるいは純白のドレスに黒いゴム長の貴婦人。
(佐久の白鳥はこちら⇒http://yutorie.exblog.jp/15552871/)
そのあと、ガラス工房に移動。小さなガラスの蛙がありました。フクロウの夫婦もかわいかった。
それから、安曇野といえば、やはりわさびでしょう。小海の山の中の水源地にもわさび田はありますが、まるで規模がちがうと聞いていました。安曇野に入ってみると低地はいたるところ中小規模のわさび田がありますが、観光用に無料で公開している大王わさび農園というところには目を瞠るほど広大なわさび田がありました。わさび田にはじゃりで畝が作られていて、そこに植えられたわさびの根が常に適量の清流によって洗われているように実によく工夫されています。大水が出てしまえばわさびなどあっというまに流されてしまうわけで、水が干上がってしまえば、わさびはたちまち枯れてしまうでしょう。大雨が降ろうと、雨がなかろうと、常にわさび田には適量の清浄な水が流れ続けるようにされているのです。そんなことが実際に可能であるのは、その水が絶えずあふれ出ている北アルプス由来の湧水であるからです。
ソフトクリーム、わさびジュース、そしてわさびコロッケがありました。私はわさびコロッケを食べてみました。とってもおいしかった。
この安曇野という場所は、九州は福岡から移住してきた一族が定住し拓いた地域なのだそうです。兵庫・滋賀県・岐阜県・愛知県等に海人・安曇族の痕跡があるとのことで、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海と地名を残しています。信州のような山のなかになぜ彼らが住みついたのかは不思議です。穂高神社という神社の御神体と呼ばれるものは船なのだそうで、祭りにもちいられる山車も舟形です。
ただ以前、近江聖人中江藤樹の史跡を訪ねて行ったことがある滋賀の高島という町と、安曇野には似た印象がありました。それは、両者ともに非常に水が豊かであるという点です。近江の高島という町には安曇川(あどがわ)という川がながれており、町中に水路がめぐらされていて、その水は琵琶湖に注いでいました。その水には錦鯉たちが泳いでいました。
信州の安曇野は、今でこそ水の豊かな憧れの観光地ですが、考えてみればもともと湿地帯であって、未開であった古代、ここにやって来たふつうの人々は決して住もうとは思わないような場所だったはずです。ですが、ここがすばらしく住みよい場所だと感じたところが、まさに水の大好きな海人・安曇族だったのだと考えられないでしょうか。海人である彼らは、身近に水がなければ落ち着いて生活しがたい性質(たち)で、いきおい治水の技術に長けていました。ですから、アルプスの山々の深い森に降った雪や雨が、長い年月をかけて地にしみこんで地下水となり、あちこちにあふれ出ているこの地がすばらしい地であると感じることができました。このあふれでて大地を潤している水を、うまく治めるならば、ここはまたとない美しい農地となり住まいとなろう、と思ったのでしょう。そうして、彼らはあちこちに出ている湧水をうまく流し、農地を造り、低湿地はわさび田にするという難事業をやってのけたのでしょう。・・・古代の、そんな風景を思い浮かべました。
「 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。 」創世記2:6