苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神を見る

        2012年10月21日 小海主日礼拝

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」マタイ 5:8


二つの気になる言葉があります。一つは「神を見る」、もう一つは「心のきよい者」。聖書全体で見渡してみると、「人は神を見ることができない」といわれたり、「人は神をみることができる」と言われていたりしています。そこで、まずこれを整理してみます。つぎに、「心がきよい」とはどういうことなのかを学びます。


1 有限の人、無限の神


 まず、存在として、神が神であられ、人は人にすぎないから、人には神を見ることはできないと教えられているみことばがあります。
「その現れを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」1テモテ6:15、16
 神は絶対者、しかるに、人間は相対者。神は無限、しかるに、人間は有限。神は、唯一の主権者、王の王、主の主、不死の方、近づくことのできない光の中にいるお方であるから、ちっぽけな被造物にすぎない私たち人間には、見ることはおろか近づくことさえできません。「人間はだれひとり見たことのない、また見ることのできないお方」とあるように、過去から未来永劫、無限の神と有限な人間との間には越えられない深い淵があります。
それは、堕落の前のエデンの園でも、堕落後のこの世でも、また、天国に行ったとしても同じことです。神は神であり、人間はどこまでも人間なのです。そういう意味で、人は神を見ることはぜったいにできません。 罪があるとか罪がないとかいう道徳的な次元の問題ではなく、存在の次元として、神様は無限のお方であるので、有限な私たちには近づくこと、見ることもできないのです。カブトムシが私たち人間を理解できないように、私たち人間は神を見ることができません。
 

 では、人間の側からは見ることも近づくこともできないほど偉大な神を私たちはどのようにして見て、知ることができるでしょうか。それを可能としてくださるのは、三位一体の神様の第二位格である御子イエスです。御子は、まず、創造において、無限の父なる神と、有限な私たち被造物の架け橋となってくださいました。というのは、次のように書かれているからです。「 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」(コロサイ1:15)
 「かたちeikon」というのは見えるものです。つまり、御子は見えない神を見えるように表わすお方なのだという意味です。特に、創世記1章27節にあるように、「神は人をご自身のかたちにおいて創造され」ましたから、つまり、「神のかたち」である御子をモデルとして私たち人間を造ってくださいましたから、御子と人間との間には本体と影、印鑑とその印影というつながりがあるのです。永遠の神の御子の影がわたしたちのうちに落とされているのはどのような点でしょう。伝道者の書は言います。「神は、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者3:11)私たちのからだは物質に還元すれば、70%が水、ほかは窒素と炭とカルシウムがほとんどであとは微量要素といったところですが、それにもかかわらず私たちの心は永遠への憧れを持っています。ロボットではないのです。何のために生きるのだろうかと考えたり、幸福とは、真理とはと考えたりするものです。それは、神が私たちに永遠への思いを与えられたからです。
アダムは、堕落の前、神様から「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16,17)という啓示も受けています。また、その主なる神は「そよ風の吹く頃、園を歩き回られる」とあるように、親しくアダムと交わってくださったのです。これは、ある古代教父もいったように、父子聖霊の三位一体の神のなかでも、特に啓示を担当していらっしゃる御子でしょう。御子は、神と被造物との、創造と啓示にかんする仲保者です。
 イエス様は、「わたしがわたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)とおっしゃいました。この真理は、エデンの園でも、この世でも、次の世でも同じです。私たちは、御子を通して、父なる神を見るのです。


2 人は罪に堕ちて、主の御顔を見られなくなった


 さて、堕落前、そのようにして御子を通して三位一体の神様と豊かな交わりを許されていたアダムと妻でしたが、「善悪の知識の木から取って食べるな」という神の戒めに背いたとたんに、神様との豊かなまじわりを失ってしまいました。善悪の知識の木の実からとって食べたというのは、神の主権を拒否することを意味したからです。あの木の名前は、善悪を決定するのは神であるということを意味していたわけですが、それから取って食べるというのは、「もはや神に善悪を決めていただく必要はありません。私が自分で自分の善悪を決めますから、神は無用です。」という態度を意味したのです。ここに、神様との決定的断絶が生じました。
「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」(創世記3:8)
 「神である主の御顔を避けて」というのが特徴的な表現です。アダムと妻にとって、かつて、あれほどいとおしかった主の御顔が、見たくもない、恐ろしい顔として見えるようになったのです。もちろん主の御顔が変わったわけではありません。アダムとその妻の心のほうが汚れてしまったのです。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」(マタイ 5:8)ということばと、ちょうど正反対のことが生じたのでした。心のきよくない者は不幸です。その人たちは神を見ることができないから。
 以後、旧約聖書には何度か、神の御顔を見たとか、見そうになったという場面が出てきますが、見た人はことごとく恐怖におののいています。たとえば、ヤコブ
「そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。」(創世記32:30)
 また、たとえばモーセはあの燃える柴の箇所で。
出エジプト 3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
 人間にとって、本来、神様との交わりに喜びといのちとがあるのです。神様がいのちをくださった、いのちの君であるからです。ところが、その神様の御顔が恐るべきものとなってしまいました。いのちの君である神を見たいけれども、見ると死ぬというジレンマの中に人間はいます。

3 御子キリストが受肉し、贖いを成し遂げて、再び神を見る道を用意された


 神を見ることができなくなってしまい、惨めな状態に陥った人間は、どうしたでしょう?
インドや古代ギリシャにあった宗教や哲学のうちには、「神を見る」ということを理想として目指した人々がいます。彼らは、カタルシスといって魂の浄化を図りました。やはり心が汚れていると神を見ることができないと考えたのです。そのために、断食をしたり、からだを鞭打ったり、太陽を見つめ続けたり、熱い火のなかをくぐったり、哲学的な瞑想にふけったりして、魂の浄化を求めるのです。
けれども、どんなに苦行を積んでも、どんなに哲学的探求をしても、どんなに整形外科でいくらか目鼻立ちはきれいにできても、こころはきれいにはなりません。道徳教育はどうでしょう。道徳教育を受けた人と受けない人とでは程度の差はありましょう。けれども、それは程度の差にすぎません。神様のきよさの基準にはいずれにしても達し得ないのです。こちらのビルの屋上から、100メートル離れたビルの屋上にジャンプするようなものです。私がジャンプして3メートル跳躍しても、カール・ルイスが8メートル跳躍しても、それは程度問題で、どちらも落っこちてしまいます。人は、どんなに修行しても教育しても、神を見ることにいたることはできません。


 人間の側からは不可能なことを、神がしてくださいました。もともとご自身をモデルとして人間を造ってくださった神の御子が、人となってこの世界に来てくださったのです。そして、十字架の死と復活をもって、神と私たちの間の罪のへだてを取り除いてくださいました。再び、神と人との架け橋、仲保者となってくださいました。
そうして、ご自身のことば、生き方、人格そのものをもって、真の神がどのようなお方であるかを表わしてくださいました。
 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)
 有限な人は無限の神を知ることはできません。ミミズが微積分をしようとするようなものです。しかし、神が人となってくださった御子イエスを見る者は、父なる神を見ることができるようになったのです。
ヨハネ4:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」 14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」 14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」


4 心のきよい人は神を見る


 ですが、福音書を見れば、人となって来られたイエス様に会って、みんながみんな神を見たわけではありません。「心のきよい者は幸いです。」と言われているように、「心のきよい者」だけが神を見たのです。これはドキリとさせられることばです。
では、「心が清い」とはどういうことでしょうか?人のことを憎しみ・殺意・みだらな思いなどを考えない、そういうことでしょうか。たしかに、そういう思いに捕らわれていると、神様のことが見えなくなってしまいます。
ですが、辞書的にいえば「清いkatharos」と訳されることばは、今言ったような道徳的な正しさをも含みますが、基本的には「混じりけがないwithout admixture」という意味で、「透き通った水」とか、「脱穀された穀物」に不純物が混じりこんでいないことを表わすのに用いることばです。でも、こういう辞書におけるきよさの定義を読んでも、「心が清い」ということばでイエス様がおっしゃろうとすることは、今ひとつぴんと来ません。
 むしろ、イエス様がお話になった文脈の中で、神を見たとイエス様がおっしゃる人たちを具体的に思い出してみましょう。イエス様が二千年前この世に来られたとき、大人、子ども、男、女、金持ち、貧乏人、健康な人、病気の人、祭司、律法学者、ローマの兵隊など実にさまざまな人々がイエス様に出会いました。ある人々は御子イエス様を通して父を知りました。けれども、ある人々はイエス様につまずいて、「あなたは、自分を神と等しいとしている。」と言って、十字架にかけてイエス様を殺してしまいました。これは、あの時代だけでなく、今日でも同じです。ある人々はイエス様によって神を見ますが、ある人々はイエス様を拒絶して神を見ることができません。
エス様の時代、イスラエル社会には、もっとも神様に近い立場にいると自他ともに認めた律法学者たちがいました。彼らは「清いもの」と「汚れたもの」を識別するために、膨大な律法知識を持っていました。しかし、イエス様は彼らの「心を」ごらんになって、おっしゃいました。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」(マタイ6:1,2)こういう人々は、うわべは神様のほうに向いていましたが、その心は、実のところ、「人にほめられること」のほうにむいています。それは不純な心でした。
 きよい心とは、ひたすらに神様に向かっている心です。今、山の上で「心の清い人は幸いです。」ということばをかけられているのは、あのガリラヤの漁師たちです。彼らには律法学者のような律法知識はありません。言葉遣いや振る舞いも、祭司たちのように立派ではなかったでしょう。けれども、彼らは一心にイエス様を見ていました。とにかくわき目を振らずにイエス様に向かっていました。ガリラヤ湖で主イエスから「わたしについてきなさい」と声をかけられると、網を捨て、舟を捨て、親まで後にしてイエス様についてきたのです。心が清いというのは、あれこれ混じりけがなく、二心でなく、一心に神様に向かっていることなのです。悔い改めを迫られたら、自分の罪深さを認め悲しみ、赦しを求め、主に忠義を尽くすことをひたすらに求める人。そういう弟子たちをイエス様は心のきよい人とおっしゃり、君たちは祝福されているよ、とおっしゃるのです。
 
 わたし達はこの世にあって純粋にイエス様だけを求めたいものです。けれども、なおあれこれと心がひっぱられるものです。世にあって、私たちが神様を見るというのは、古代の銅の鏡に映してみるようなものです。ぼんやりと見えるだけです。また毎日磨かなければなりません。福音書を読んでイエス様を見るときに、神様のことが見えることは確かに見えているのですが、なお、はっきりとは見えません。ですが、やがて、天の御国に入れてもらうときには、顔と顔とをあわせるようにはっきりと御子にあって神を見ることができます。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」1コリント13:12
 そうです。新しい天と新しい地に住まわせていただくとき、私たちははっきりと曇りなく小羊キリストにあって、神様の御顔をあおぐことになるのです。御子イエス様が、父なる神を一心に見ておられるように、わたしたちもイエス様を通して御父をはっきり見ることができます。今はまだそのときではありませんが、イエス様をしたい求め、イエス様のあとについてゆく生き方を一日一日選び取るなかで、私たちは御子を通して神を見るのです。