苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

H.シーセン『組織神学』

 大学時代、土浦の教会の毎週日曜夕方の集会で4年かかって、証拠聖句をことごとく開きながら、じっくりとかなり批判的に読んだのがこのヘンリー・シーセンの『組織神学』(聖書図書刊行会)である。当時、土浦の教会の夕方の集会では、信徒たちは、ヤング『旧約聖書概観』、M.テニイ『新約聖書概観』、ケアンズ『基督教全史』、後藤光三『説教学概論』など聖書図書刊行会の堅い本を順々に読んできていたのである。朝岡茂先生は、「簡略な書物を100%理解するよりも、本格的なものを苦労して読み通して50パーセント理解したほうが、実力がつくのだ。」という哲学をもっていらしたから、教理の学びについても、信徒向きのハロルド・リンゼル『聖書教理ハンドブック』でなく、シーセンを採用されたのである。
 シーセンはもともと聖書学者であって、教義学者としては素人っぽくて、神学的伝統の意識の希薄なバプテストである。救済論に関して言えば、カルヴァン主義者から見ればアルミニウス主義であり、アルミニウス主義者から見ればカルヴァン主義に映るであろうが、あまりナントカ主義を首尾一貫して主張することを好まないというのが基本的スタンスと見える。バプテストの信仰は、個々の信者が、聖書によって直接神につながっているというものであるから、とにかく聖書はなんと言っているかで結論を出そうとする。
 シーセンは、ある主題についてアウグスティヌスはどう言った、トマスはなんと言った、ルターはなんと言った、カルヴァンはなんと言った、ホッジはなんと言った、ストロングはなんと言った、シェッドはなんと言ったと一応さらりと整理した上で、「では、聖書はなんと言っているか?」と問うて結論を出す。カトリックのネメシェギの『父子聖霊』や『神の恵みの神学』は、聖書はなんといっているか、古代教父はなんと教えたか、中世神学ではどうだったか、宗教改革者はなんと言ったか、トリエント公会議はどういったかと整理して、我々はどのように考えるべきかという歴史的順序で説いているのと好対照である。ただ、バプテストなのでディスペンセーショナリズムからだけは自由でなかったようで、その章だけは聖書釈義を離れて好き勝手書いていて、あまりにお粗末なので、朝岡先生は「ここはホッチキスでとじてしまいましょう。」と言って笑われた。
 今では、福音派神学校の標準教科書は、周到に記述されたミラード・エリクソンキリスト教神学』に取って代わられて、たぶんシーセンはその歴史的使命は終わってしまったのだろう。だが、素朴に「では聖書はなんと教えているのか?」という信仰と方法は私のなかに生きている。教義学者でないシーセンには、それを読み進めれば透徹した神学的展望が開けてくるとか、哲学的議論の深まりにワクワクするいった種類の愉しみはないのだが、どこまでも「では、聖書はなんと言っているの?」と問う素朴な態度は、私の中に沁み込んでいる。