(2)会衆派とバプテストの出現
a,会衆派(独立派・組合派教会)
英国教会は大陸の宗教改革とローマ教会からと左右両方から批判や影響を受けながら中道(via media)を行くが、特にジュネーブの宗教改革〜スコットランド長老教会の影響を受けた人々が、ピューリタン運動を展開する。このピューリタン運動のなかに長老派・会衆派・バプテストが含まれる。独立派は別名、独立派また組合教会とも呼ばれる。長老派はピューリタンに含まないという言い方もある。
長老派は国民全体を包括する教会の改革をめざすので「改革された国民教会」が宗教改革の目標となる。それは英国教会を長老主義式に変える、スコットランド方式を意味する。だが、会衆派は教会契約によって形成されるような「聖徒の交わり」としての教会をつくることを目標とする 。自覚的な信者の集りが会衆である。
会衆派の祖ロバート・ブラウンRobert Browne(1550-1633)は、<真の教会は自覚的に信仰告白をし、きよい生活を営むキリスト者によって構成されること、会衆は神と人々との契約によって結ばれること、教会は国家から独立していること、各個教会はそれぞれ独立した自治権を持つこと>など、会衆派の原則を明らかにした。「独立」とは国教会からの独立、各個教会の独立を意味する。
これらの原則は国教会の存在を根本的に批判・攻撃するものであったから、国教会側からの激しい迫害を受け、多くの殉教者がでる。こうした迫害のなかで、会衆派教会は信仰の自由を求めて、オランダへ、また新大陸へと移住を決行し、それぞれの地に会衆派の教会を設立することになる。1620年12月に新大陸プリマスに上陸したピルグリム・ファーザーズはあまりにも有名。新大陸にわたった会衆派はニューイングランドに多くの教会を設立し、国内・国外伝道に熱心であり、また、一般教育でもハーバード、エール、アモスト、オベリンなどの大学を設立した。
他方、英国に残った会衆派は17世紀に清教徒革命の中核勢力となる。クロムウェルは会衆派(独立派)。彼らは、階層的にはジェントリ以下の広範な層が含まれていた。位置としては、長老派と他の分離派との中間である。彼らは、1645年2月に編成された新模範軍を背景に第1次内戦の原動力となる。ここに、会衆派(独立派)の勢力が台頭し、長老派と激しく対立し、第二次内戦後、独立派は長老派を議会から追放(1648)する一方、左翼の平等派をも弾圧(1649)。1649-60に共和制。
b.バプテスト
①沿革
ジョン・スミス(1554−1612)がバプテスト教会の創始者とされる。スミスは最初、英国国教会の牧師であったが、後に会衆派の牧師となって迫害を受け、その中でオランダに移住する。会衆派の教会観はアナバプテストに通じる所が多く、スミスは教会観についてはオランダ亡命中にアナバプテストのメノナイトの影響を受けた。やがて彼は幼児洗礼を否定し、自己バプテスマを行い、最初の現代バプテスト教会を設立した(1609)。しかし、スミスはメノナイトに移ったので、1612年にはヘルウィスはアルミニウス的立場の一般バプテスト教会を設立し、1633年にはカルヴィニズム的立場による特定バプテスト教会も設立され、バプテストは熱心な宣教によって英国各地にひろがり、長老派・会衆派とともにプロテスタントの三大教派の一つとなった。
米国のバプテスト教会の歴史は、英国から移り住んだR.ウィリアムズの設立による(1639)。米国でのバプテストの発展は、英国におけるよりもさらに急速であり、後述するような伝道者たちを輩出して、米国における最大教派を形成することになった。
②再生的信仰−簡易信条−宣教の情熱−会衆政治
バプテストの特徴の根本は、再生した信徒はキリストと直接にリアルに結びついているという信仰である。それは聖書と伝統との峻別として現れる。バプテスト教会は神学的には正統的で三位一体やキリストの二性一人格を告白した古カトリック信条を認めている。しかし、バプテスト教会はことばによって定式化された伝統・教理というものは、キリストにあってなされた啓示に対する生き生きした信仰を形骸化させるのではないかという警戒心を持っている。そこでルター派や改革派が持つような整備された本格的な信条をあえて持とうとはせず、簡易な信条を持つに止める。
この姿勢はバプテスト派に対する肯定的な見方からいえば神学的な穏健さ、否定的な立場から見れば中途半端さとして現れる。バプテスト教会の中にはアルミニウス的(半ペラギウス的)立場とカルヴィニズム的(アウグスティヌス的)立場が混在している。カルヴィニズム的というのは神の予定を強調する立場であり、アルミニウス的というのは神の予定の教理をゆるくして人間の主体性を強調する立場である。
神は、むしろバプテスト教会に神学的厳密さへの熱心よりも、宣教への熱心という賜物を授けられたといってよいだろう。明確な回心を強調するバプテストのなかから、救霊への情熱にあふれた者が出てくるのは当然であった。英国に十七世紀に現れた『天路歴程』の著者ジョン・バンヤンの宣教への不屈の闘志にせよ、十八世紀米国の信仰覚醒運動の指導者ジョナサン・エドワーズの宣教にせよ、十九世紀のドワイト・ムーディにせよ、また英国のスポルジョンにせよみなバプテストの伝道者たちである。また、「近世海外宣教の父」と呼ばれインド宣教に立ち上がったウィリアム・ケアリ(一七六一−一八三四)も、ビルマ宣教に挺身したアドニラム・ジャドソン(一七八八−一八五○)もバプテストの信仰者であった。
バプテストの救霊への情熱の根本には、その自覚的信仰告白の強調・再生者洗礼の実践があるといって良い。宣教の歴史を振り返るとき明らかなことは、福音宣教に時には組織も必要かもしれないが、福音宣教にとってはるかに重要なのは人だということである。キリストにある救いに感激し命を惜しむことなく捧げた御霊に満たされた人、これこそ福音宣教の力であった。
バプテストは、信徒は直接にキリストに結び付いていると固く信じている。キリストと信徒の間に教職者や組織や儀式が入り込むことを極度に嫌う。これは、ルターが新約聖書に発見した「信徒皆祭司」という原理である。ルターは信徒皆祭司主義を提唱はしたが、ルター派教会においては教職制や儀式がかなり強調されているので、「信徒皆祭司」という原理はかなり観念的なものに止まっているといわざるをえないだろう。また改革派では信徒皆祭司の原理はもっと実を持っている。たとえば信徒から選挙で選ばれた治会長老とよばれる役員が、必要に応じて説教をすることも認容される。しかし、改革派は神学的厳密さを重んじるので、みことばの教師の資格には相当の訓練と知識が必要とされるので、一般信徒が直接宣教に携わることには障害がある。やはり宣教は教職者がすることだという空気が一般的には強い。しかし、バプテスト教会は、神学的厳密さよりも聖書を介してキリストと直接結び付く回心が重んじられるので、信徒がかなり自由に宣教に携わることができる風土、御霊の賜物が自由に用いられるという素地がある。
信徒がキリストに直接結び付いているという信仰は、バプテスト教会の教会政治のありかたに決定的な影響を及ぼしている。バプテスト教会は会衆制をとり、牧師は各教会の会衆が招聘するのである。教会における主権者はもちろんキリストであるが、キリストから教会の統治のために主権を委託されているのは会衆なのである。また、各教会は独立しており、監督制のように、各教会を超える上部機構からの制約を受けることに対して、強い抵抗感を持っている。