苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

整体師のことばと近代聖書学

 Youtuberをしている整体の先生が話していたのですが、ハワイ大学から「すぐに来い。死後間もない人体が手に入った」という知らせがあったので、そんなチャンスはめったにないので出かけて、その死後まもない人体を動かしつつ解剖するのを見て勉強することができたそうです。普通の大学医学部の勉強では、もう時間も経ち、動かすことができなくなった人体を解剖して行うそうなので、実際のからだの様々な部位の可動範囲とか、連動関係などは実は多くの整形外科の先生も見たことがないのだそうです。けれど、自分はこのような機会に恵まれて幸運だったのだと話していました。確かに動かない遺体を研究しても、生きたからだの仕組みは本当のところわからないでしょう。

 この話を聞いていて、近代聖書学の方法の問題点について思い浮かびました。近代聖書学は18世紀の啓蒙思想の世界観の下に出来た学問です。啓蒙思想家たちの多くは理神論者でした。理神論では、英知界(イデア界)に住む神は現象界(私たちが住んでいる世界)を造ったけれども、後は放置しているので、現象界はそれ自体の法則にしたがって運営されている。神は現象界に介入して奇跡を起こしたり啓示を行ったりはしない。したがって、人間は理性の力でもって、この現象界を理解できるし支配できると考えます。つまり、理神論における「神」とは哲学者の神、観念上の神、死んだ神です。
 この啓蒙思想の「神」を前提とするならば、聖書に出てくるさまざまな奇跡は事実ではなく、そこからなにか譬えを学ぶための作り話だというのです。また、聖書は他の古文書と同じように、現象界の文化現象にすぎないことになります。彼らは創世記の創造記事はメソポタミアの神話の影響下に出来上がったのだと唱えたり、創造記事をカナンの神話の創世神話の枠組みで解釈したり、ヨハネ福音書をヘレニズム思想と関係づけて解釈したり、第二神殿期のユダヤ教文献と関係づけて解釈したりするならば、正解が得られると考えるわけです。
 しかし、聖書の神は、「哲学者の神」つまり死んだ観念上の神ではなく、生ける神です。みことばをもって世界を造り、摂理をもって世界を支配し、時には被造物である自然法則を停止したり強化したりして奇跡を起こし、さらには、ご自身、人となって世界に飛び込んで来られ、死んでよみがえったお方です。哲学者の神、死んだ神を前提とする近代聖書学の営みは、動かなくなってしまった古い死体の研究をしている研究者の営みと似ているなあと感じます。また、NPPはパウロの教えと後期ユダヤ教を同類なのだと主張しますが、無理でしょう。なぜなら、当のパウロ自身が、「兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(ガラテヤ1:11,12)と主張しているのですから。

 イエス様の時代、ギリシャの合理主義に染まって奇跡も天使も復活も信じないサドカイ派と呼ばれる人々がいました。イエス様は彼らに「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。」(マルコ12:24)と言い放ちました。イエス様は、同じことばを近代啓蒙思想の枠組みの中で聖書を研究している人々に仰るのではないでしょうか。