苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

カントの「神」と聖書学

(昨日の続きです)
 では、カントは現象界から神を締め出して、もはや神について考えなかったかというとそうでない。カントは道徳的要請として神の存在を認めている。簡単に言ってしまえば、もし神がいなければ、人はまじめに生きる気が失われるから、神はいることにするのだということである。
 こういう考え方には2つの問題がある。

 第一は、道徳的要請として神を設定するというような態度の問題。敬虔なパスカルに言わせれば、まさしくカントの神は「哲学者の神」であり人間の都合のために理論上いることされた張子の神にすぎないということである。その神は、聖書にご自身を啓示する生ける神ではない。パスカルデカルトに向けた批判のことばは、そのままカントについても適用される。
「私はデカルトを許すことができない。彼はその全哲学のなかで、できれば神なしにすませたいと思った。 だが、彼は世界に運動を与えるために、神に最初のひと弾きをさせないわけにいかなかった。 それがすめば、もはや彼は神を必要としない。」
 主イエスは、ギリシャの合理主義哲学の影響を受けたサドカイ人に対しておっしゃった。
「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(マタイ22:29-32)

 第二の問題は、現象界において悟性(学的思考)は価値中立的で自律的であるという思い込みである。しばしば言われる「科学はhowを問うのであり、whyを問わない」というフレーズは、それを表わしている。実際には、H.Dooyeweerdがいうように、悟性はある前提(根本的宗教動因)をもって方向付けられて働くのだが、その現実を自覚できないほどに「理性の自律」、言い換えると「神がいたとしても現象界への超自然的介入はしない」という理神論の前提がドグマ化されてしまっているのである。ドグマとはそれに疑問をさしはさんだら、異端として排斥されてしまう教えであって、価値中立的とは程遠い。現象界について神が特別介入したというような主張は、「前近代的」「迷信」というレッテルを貼って学界から破門にするという熱烈さである。原発の危険性を訴えると、原発安全神話というドグマで支配された原子力学界から無視された学者たいたのと同じようなものである。
 「神がいたとしても現象界への超自然的介入はしない」というドグマが聖書研究に適用された場合、聖書学者は、聖書の成立にあたって、各書はその記された時代と民族の文化的所産であって、それ以上のものではないということになる。また聖書に記録された事前預言はありえないとされ、執筆年代は事後であるとされる。さらに、理性の営みとしての哲学理論の枠組みを聖書批評学に適用して、たとえばヘーゲル弁証法を新約学に、宗教進化論を旧約学に適用することも行われ、執筆年代や各書の真筆かいなかの判断までもしてきた。
 下に参考のために、19世紀の哲学思想が聖書批評学に影響を及ぼした例についての文章を再掲載しておく。2010年12月29日掲載のもの。


3 進歩思想と聖書批評学

(1)ヘーゲル弁証法テュービンゲン学派の新約聖書高層批評

 自由主義神学の聖書高層批評に影響をおよぼしたのは、ヘーゲル哲学の弁証法の論理である。弁証法というのは「正→反→合」の論理であり、ヘーゲルはこの弁証法の論理によって自然と歴史と精神の生成・運動・発展が起こると主張した。たとえば、中世は神秘主義の時代だったが、これを「正」とする。やがて、近世は「反」として合理主義の時代が来る。が、やがて、次に反動として神秘主義的なロマン主義の時代が来るが、ロマン主義は単なる中世的神秘主義でなく合理主義をも含んだより高度な神秘主義である。これが「合」である。このロマン主義の次にはまた、より高次の合理主義の時代・・・と無限に発展していくというわけだ。弁証法の論理で一切が生成発展するという哲学は、多くの知識人の魂を魅了した。神学者も例外ではなかった。

 原始キリスト教の形成を、弁証法の論理で解釈し聖書批評学に応用したのが、テュービンゲン大学のF.C.バウルである。彼はまず、初代キリスト教会にはナザレのイエスから直接の教えを受けたペテロ主義が「正」としてあったが、これに「反」として反律法・恩恵主義のパウロ主義が対立し、やがて、両者の対立が止揚(破棄)されることで恩恵と律法を説く古代キリスト教が成立したという。つまり、「合」である。しかも、バウルは聖書の各文書の成立年代をこの弁証法の枠から推断した。つまり、その文書の思想内容からその手紙の古さを測定したのである。

 弁証法の論理から、恩恵救済を力説するガラテヤ書、ロマ書、コリント書はパウロ自身の真筆だが、他の恩恵救済を強調していないテモテ書簡などはパウロの真筆ではなく、ペテロ党とパウロ党の対立が破棄・融合されて成立した原始キリスト教会がパウロの名を用いて作った偽作だと断じてしまう。弁証法の論理が、下層本文批評ですでに確定した聖書テキストの事実よりも上に位置づけられているのである。

(2)宗教進化論と近代旧約聖書

 自由主義神学旧約聖書理解は、宗教進化論の影響を受けている。ダーウィンの影響を受けて宗教進化論を唱えたのは、E.D.タイラー(1832〜1917)である。彼は人類の文化すべてについて研究を進め、文化・言語・宗教・道徳・呪術などに対する概念規定を独創的に行い、文化科学内におけるそれぞれの位置を定めた。また、「単純で断片的なものから複雑で統合されなものへ」という生物進化論の枠組みに沿って、宗教発生の第1の段階として、万物に霊的存在が宿るというアニミズムを想定し、<アニミズム多神教一神教>という宗教進化の図式を考えた。この論はその後多くの論争をひきおこし、優れた研究を生み出すきっかけとなったが、現在ではすべて根拠のない説として否定されている。

 タイラー説をヘブル人の宗教の形成にあてはめたのが、ヴェルハウゼン(1844-1918)である。すなわち、ヘブル人の遊牧生活の時期はアニミズムの段階にあたり、やがて、モーセによる発展期にはいったのは単一神教の段階であって、多くの神々を認め、その中の最高神ヤーウェという考え方になった。ついで、カナンの諸宗教の中で成長して唯一神教となり、最後の段階に到達はモーセの律法によるのではなく、預言者の宗教であるとする。預言者は儀式的な神礼拝をはげしく攻撃し、超越的な神概念がここに誕生したというわけである。

 また、ヴェルハウゼンは文書資料説によって、モーセ五書の成立について説明を試みた 。その分析は<単純で断片的なものは古く、複雑で組織的なものは新しい>という進化論的基準による。この考え方からすると、単純・断片的な預言書、詩、箴言の類いは古いとされて、組織的体系をもったモーセ五書のような文書は後代のものであると位置づけられる。いちおう文書資料説に立つ諸説のうちの標準として「聖書大事典」(教文館)の内容から報告すれば、詩篇の一部、箴言は9世紀、預言書アモス、ホセア、第一イザヤは8世紀、ゼパニヤ、エレミヤ、ナホム、ハバクク書というぐあいに配置されて、モーセ五書はなんと紀元前10世紀のJ資料、前8世紀のE資料、前7世紀のD資料、前6世紀のP資料が編集されて前5世紀頃に成立したとされる 。

 しかし、20世紀にはいってから急速に発達したオリエント考古学による紀元前2000年期の大王契約文書の発見が発見された。そして、それらの大王契約の様式にのっとってモーセ五書とくに申命記が記されていることが判明したことによって、モーセ五書の成立年代はモーセの時代にまで大幅にさかのぼられることになった。オリエント考古学者K.A.キッチンは次のように指摘している。「紀元前2000年期後半の入念な形式を持つ条約は、その設計においてシナイ契約とモアブとカナンでの契約更新とにもっとも類似した形式上のパラレルを提供してくれる。その契約は、紀元前1000年期に支配的であったと判明している契約形式とは全く異なっている。このことは、モーセがほとんど十中八九は年代付けられるはずであるその時期に、モーセの契約の起源があることを十分に証明するものであり、彼の歴史的役割を(間接的にではあるが)好意的に支持するものである。 」

 こうしてオリエント考古学の成果による客観的な証拠群によって、ヴェルハウゼンに始まる文書資料説が虚構であったことがあきらかにされてきたのだが、一度常識とされた学説というのはなかなか覆らず、リベラルな陣営においては先端の学者でないかぎり、今もって定説的な扱いをする人々がいる。だが、20世紀後半になって文書資料説をつくがえす研究が進み、最近では自由主義神学系の出版物にもJEDP仮説に対する疑義が提出されるようになっている。


追記 同年12月3日>コメント欄のやりとりをご覧ください。興味深い指摘をいただきました。
カントは敬虔主義的信仰を背景として育った人ですから、empirestateさんがいうように、カントの現象界の窓は開いていたのかもしれません。しかし、その後の理神論〜自然主義無神論的思潮のなかで、カントの意図は誤解されてしまったのかもしれない、とコメント氏の文章を読んで思いました。
 しかし、神の啓示というものは、一般啓示であれ特別啓示であれ、神が人間にわかる方法をもって、私たちに伝達をすることですから、私たちが神について知ることができないわけではなく、啓示されたかぎりにおいて知ることが出来るというのが、聖書の主張です。