苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書を読み直す?

「聖書を読み直す」という言い回しをときどき目にする。「これまでは、このように教えられて来たけれど、聖書はほんとうにそういうことを教えているのか読み直すのだ」というのである。

 こういう企ては、正しく聖書がほんとうに語っていることに迫る場合と、かえって聖書がほんとうに語っていることから遠ざかってしまう場合がある。後者の場合というのは多くは、「聖書を読み直す」という動機が、今の時代の思想とか風潮などに調子を合わせたいという場合である。

 こういうことは、古代の教会からありがちだった。グノーシス主義というのは、聖書をギリシャ宗教思想の二元論に合わせて解釈しようとしたものだった。近代のシュライエルマッハーの『宗教論』は、著者が最初の方で述べるように、当時の知識層に受け入れられるようにと意図して聖書を再解釈したものであるが、その「宗教」は汎神論になってしまっている。先の戦中に流行した「日本的基督教」も同じである。現代はどうだろう。心病んでいる時代、あるいは、日本の甘えの文化に合わせようとしてであろうか、神の怒りをまったく語らないで神のやさしさのみを語ろうとする傾向があるのではないだろうか。神の怒りを教えないことは、人間の罪を教えないことであるから、イエス・キリストの十字架の意味を教えないことになってしまう。聖書は、私たちは生まれながら神の怒りを受けるべき罪深い者であると明白に教えている(エペソ2:1‐3)。滅ぼすべき者をなおキリストによって救おうとされたからこそ、神はあわれみ深いお方なのである。

 近現代の自由主義陣営の神学の場合、ヘーゲル弁証法(→チュービンゲン学派)、キェルケゴールの実存哲学(→バルト)、ハイデガーの哲学(→ブルトマン)などが思考の枠組みとして用いられた。だが、たぶん近現代人が自覚しないほどにもっと広く支配されているのは、カントの認識論の枠組みだろう。それは、我々が科学的に認識できるのは現象界のことのみであり、神・魂・自由といったことは心の世界(観念界)に属するという枠組みである。この枠組みを聖書に適用すると、聖書は現象界に属する古文書の一つであるということになる。他の古文書がその成立した時代の文化・言語の産物であるように、聖書各巻もまた書かれた時代の文化の産物として扱うべきだということになる。聖書各巻の記述を理解するためと称して、バビロンの神話、近年はカナンの宗教の色眼鏡で「聖書を読み直し」て「わかった!」というのである。

 だが、そもそもカントの認識論の枠組みを聖書に適用することが間違っている。聖書においてご自分を啓示する神は、観念界に幽閉された死んだ神、カントの神ではなく、生ける力ある神であり、聖書はその神が啓示された書物だからである。主イエスは、合理主義に凝り固まって復活を否定するサドカイ人に言われた。

「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。」マルコ12:24