苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

Theist(有神論者)を自任しつつ、deist(理神論)的に考えている人々

 大学時代に小川圭治先生からキルケゴールを手ほどきしていただいた。ゼミで読んだのは『哲学的断片』だった。小川先生はカール・バルトに直接学んだバルト研究者であり、先年、天に召されたとうかがっている。卒論はパスカルに関するもので、主査にはパスカルサルトルライプニッツなどの研究者である飯塚勝久先生だったが、小川先生に副査についていただいた。一応の書き上がりとなって、私に先生二人で会ってくださった。
 そのとき、卒論のなかのどういう文言からそういう議論になったのかは忘れてしまったが、小川先生は私に対して次のような趣旨の批判をなさった。
「君の考えでは科学の世界に神の世界が入り込んでくるということになってしまう。それでは、カントの『純粋理性批判』の認識論の成果を否定することになる。おかしいではないか。」
 そのとき、私はきちんと説明することができなかったのだが、その後、ずっと考えてきて、すっきりと整理できたので、ここにメモしておこうと思う。
 小川先生が言われたカントの純粋理性批判は、科学的認識の限界を定めたとされる哲学書である。分厚い本であるが、趣旨は次の通り。<科学的認識は、感覚できる現象界からの情報を悟性で整理して成り立つものである。したがって、五官をもって感覚できない、神、魂、自由についての議論は、科学的認識の及びうる範囲外である>。小川先生は、このカントの枠組みから、神は現象界に介入することは出来ないはずなのに、水草くんの神は現象界に介入してくるようではないか、と批判されたのである。
 カントの認識論は、ニュートン力学形而上学的裏づけをしたといわれる。ニュートンはdeism(理神論)に立つ人であった。deismとは、神は世界を創造したが、創造した後は世界から手を引いていて、世界はそれ自体の法則をもって運行しているという考え方である。つまり、「世界」を現象界と言い換えれば、カントの認識論とぴったりと重なることに気づくだろう。神は現象界を創造したが、現在は、現象界に介入しない。したがって、現象界はそれに与えられた法則にしたがって運行されているから、そこに神による奇跡や預言ということはありえないということである。そして、現象界においては悟性(科学的認識)は自律的・オールマイティである。


 結論から言えば、小川先生が私を批判しておっしゃったことは、まさにその通りであって、それが私の立つ、そしてパスカルの立っていた聖書的なtheismの世界観と認識論なのである。神は、そのことばをもって万物を創造し、これをすべ治めておられる。通常、神は、この世界にお与えになった法則によって、この世界を治めていらっしゃる。だから、17世紀のガリレオケプラーパスカルといった敬虔な人物たちが、神の通常の摂理を信じて、そこに法則を発見することができた。西洋に近代自然科学が成立しえた背景には、キリスト教があったことは、今日では科学史における定説である(ホワイトヘッド、バターフィールド参照)。
 だが、神は、時に、ご自身のみこころにしたがって現象界に介入し、奇跡を行ったり、選んだ人々を用いて預言をなさったりする。モーセを用いて葦の海を分けたり、エリヤを生きながら天に引き上げたり、ダニエルに幻をもって啓示を与えたり、処女を身ごもらせて神の御子が人として世に来られたり・・・と聖書では、神が現象界に必要に応じて介入して特別なみわざを行われた。
 小川先生はキリスト者としてdeismを批判し、ご自分はtheismに立っていると思っていらした。しかし、ご自分がカントの認識論を信奉することによって、事実上、deismに陥っている自己矛盾にお気づきではなかったと思う。このこと、きちんとお話しする機会があればよかったのにな、と今になって思う。
 theistであると自任しつつ、カント認識論を肯定することによって事実上、deismに陥っているという問題は、小川先生だけでなく、いわゆる新正統主義神学を信奉する人々が共通にかかえている自己矛盾であるといわねばならないと思う。

追記
 神論にかんする訳語の問題。通常、theismを有神論、deismを理神論、atheismを無神論と訳す。しかし、deismから言えば、彼らも神は有るということは信じているのだから、theismに立つ者のみが有神論者と名乗るのは言葉として不正確といわねばならないだろう。
 もう少し整理すれば、theismの神は創造と通常摂理と特別摂理を行う神であり、deismの神は創造と通常摂理は行うが特別摂理を行わない神である。旧約聖書的な「生ける神」から取って、theismは活神論とでも訳せば良いのだろうか。
 だが、小川先生は理神論の哲学者の神を信奉するのでなく、生ける神を信じる人だった。バルトもその難解な本を読むかぎり、またその生き方を見る限り、まちがいなく生ける神を信じる人だった。小川先生は、実存的な態度においては活神論に立ち、学問的な理屈としては理神論に立っていらしたということになるのだろう。