苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

科学は中立でありえるか?

 月刊『いのちのことば7』(2022年)が「キリスト教と科学」というテーマを取りげており、「自然科学は有神論でも無神論でもない中立のわざである」という少々気になる文があったので、メモをしておく。

 創造主はご自分のかたちに創造した人に被造物の支配し(創世記1:26)耕し守ること(同2:15)をお命じになった。自然科学は、神の文化命令に応答する被造物理解の営みであるというのは、全くその通りである。だが、そのあと「自然科学は有神論でも無神論でもない中立のわざである」と、まるで自然科学に携わる人間の知性は堕落の影響を免れているかのような文にひっかかった。果たして聖書は堕落の影響を受けたのは感情や意志だけであって知性は堕落の影響を受けていないなどとは教えているだろうか?
 聖書に「愚か者は心の中で、『神はいない』と言う。」(詩篇14:1、53:1)とある。神に背いた人の知性は決して中立ではなく「神はいない」という方向で知性を働かせる傾向がある。あの放蕩息子が「親父なんていなくても俺は生きて行ける」と思ったのと同様に、自然現象を前にしても、神を信じない科学者は「神抜きで目の前にある事象を説明したい」という衝動が、その知性に影響を与えているのである。

 それは最初の人アダム堕落以来の傾向性である。蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」(創世記3:4,5)ここで「善悪を知る」ことは「神のようになる」ことと同義とされている(3:22も参照せよ)。蛇は、神が誰にも依存せず自律的に知性を働かせるように、あなたは神抜きで自分で知性を働かせることができるのですよと誘惑したのである。

 このことはヨーロッパの近代思想の推移にも現れている。17世紀の自然科学の方法論を確立した人々、ケプラーガリレオパスカルたちはいずれも創造主である神を畏れる人々であった。彼らは、神は我々に二つの書物をもって語りかけていて、その一つは聖書であり、もう一つは被造物世界であると考えた。無限のラチオ(ratio:理性・理法)を持つ神は、被造物世界をラチオをもって造られたから、神のかたちに造られて知性のうちに有限とはいえラチオを与えられた人間は、被造物世界をのうちに与えられたratioを読み解くことができると考えたのである。彼らは聖書によって宇宙にはratioがあるという前提を与えられていたからこそ、個々の実験結果をつなぎあわせて法則を見出せると考えたのである。有神論的世界観があったからこそ、西欧キリスト教世界に自然科学が誕生することができた。

 だが、18世紀啓蒙主義の時代になると、多くの思想家たちは有神論から理神論に傾いていく。すなわち、神は世界を創造したのちは、この現象世界には干渉しない。だから、啓示も奇跡もありえない。人間はラチオをもって、世界を読み解き支配することができると考えるようになった。アイザック・ニュートンは理神論者であった。

 啓蒙主義はさらに理神論では生ぬるいとばかりに無神論へと突き進むことになる。フランス革命の落とし子マルキ・ド・サドは公然と無神論を唱えた人物である。19世紀になり、生物進化説・進化思想が出現すると、それは創造主などいなくても、複雑・精妙なこの世界が偶然と膨大な時間さえかければ出現したと説明できるのだという幻覚を現代人に抱かせるようになった。

 有神論から理神論そして無神論へという近代思想の展開には、近現代人が「なんとかしてこの世界から神を抹殺したい」という衝動に突き動かされて歩んできたのかが如実に現われている。

 本来、近代自然科学の方法は、今、目の前で生じているある現象の仕組みについて仮説を立て、実験をして仮説の検証をし、検証結果が仮説にそぐわない場合は、仮説を立て直して、実験をして検証をするというプロセスを繰り返しつつ、現象の仕組みの実態に迫っていくものである。この方法は今、目の前で起きている物理現象の仕組みを解明するというようなことの場合には、「神抜きで説明したい」という衝動の影響は受けにくいだろう。
 しかし、現代において自然科学と称せられているものは、これほど厳密な意味のものではなくなっている。現在、宇宙がこのような姿になるためには、遠い過去何があってこのような姿になったのかと推測したり、遠い未来において宇宙はどのようになっていくのかといった、本来自然科学の対象外のことまでも推測して、自然科学と称している。その場合には、有神論的前提で対象を見るのか、理神論的前提で対象を見るのか、無神論的前提で対象を見るのかによって、仮説が違ってしまう。科学は決して中立ではない。