苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

同時代のユダヤ人がイエスを誤解したのと同じ誤読

 イエスの同時代のユダヤ人たちは、ローマ帝国支配下にある自分たちが民族・国家として神の懲罰の下にあるという意識を持ち、そこからの救いを求めていた(ルカ2:25,ヨハネ6:15、使徒1:6)。もしイスラエルが主の契約に不忠実ならば、神は異教徒の外国によってイスラエルを懲らしめさせると警告されていたからである(申命記28:49~)。
 ところが洗礼者ヨハネは、アブラハムの子孫であることにあぐらをかくユダヤ人たちに対して、神は石ころからでもアブラハムの子孫をつくることがおできになる。肝心なことは一人一人の悔い改めだと警告した(ルカ3:7-9)。また主イエスも、王であるご自分が来たので神の王国が近づいたと宣言し、一人一人が神の前に罪を悔い改めて福音を信ぜよと宣教し(マルコ1:15)、さまざまの人々、一人一人と出会い、神の王国の福音を告げ、神の王国の到来のしるしとして癒しのわざを行われ、悔い改めを求めた。特に、イエスはまずはユダヤ人への宣教を優先しつつも、サマリア人や異邦人にまでも、福音を伝えている。つまり、洗礼者ヨハネとイエスの宣教は、同時代のユダヤ人が求めた「民族・国家としての罪からの救済」を告げるのでなく、人間一人一人が神の前に悔い改めるように、つまり個人として神に対して悔い改め、イエスを信じて、神の王国に入るようにと命じた点に特徴がある。その神の王国とはアブラハム契約に基づくものであるが、アブラハムの食卓には世界中の異邦人たちも集うのである(マタイ8:11)。

 使徒パウロは、ローマ書1章から8章までは異邦人・ユダヤ人を問わず、すべての人が罪があり、ユダヤ人も異邦人も律法を行うことによらず、キリストを信じる信仰によって義と認められてアブラハムの子孫にされ、世界の相続人とされるのだと教える。その後、ローマ書9章以降11章までで、彼の同胞ユダヤ人たちの多くが今はキリストを拒んでいるが、神が彼らを選んでおられる以上、彼らも将来悔い改めてイエスをキリストを受け入れる日が来るのだという約束について述べている。

 ところが、N.T.ライトは同時代に近いユダヤ教文献に、ユダヤ人の罪認識が民族的・共同体的であるということを見出し、それを基準として、パウロのいう「罪」とは個人的な罪でなく民族的・共同体的な罪を意味していると断定し、その観点からローマ書1—8章の義認をも解釈しようとした。つまり、義認とは終りの日に、神がユダヤ民族をご自分の民であると認定することを意味するというのである。だが、これは誤読であろう。ライトの誤読はイエスの同時代の、ローマ帝国に圧制からの解放を願っていた多くのユダヤ人がイエスを誤解したのと同じ誤りであるといえる。ライトの誤読の原因は、新約聖書を読むにあたって新約聖書自体を基準とせず、イエスの同時代に近いユダヤ教文献の罪理解、救いの理解を基準にして新約聖書を読もうとした点であると言えるだろう。

 

<追記 2024年1月17日>

 日本長老教会によるN.T.ライトに関するレポートで、ライトの聖書理解の手順が示されている(37ページ)。ライトは、聖書のある概念を理解するには、まず第二神殿期のユダヤ教文献を読むことが必須であるとする。
①まず第二神殿期のユダヤ教文献においてそれがどのように教えられているのかを調べ、
②次にユダヤ教文献の概念や理解が使徒たちの理解と同じてあると仮定し、これを新約聖書の解釈に適用する。
③そして最後に旧約聖書を開き、第二神殿期のユダヤ教文献および新約聖書とのつながりを確認する。

 

 上の②「ユダヤ教文献の概念や理解が使徒たちの理解と同じであると仮定」することが間違っているのである。第二神殿期のユダヤ教文献では罪理解と救いの理解は民族的・国家的なものであった。たしかに福音書に見える、ほとんどのユダヤ人たちの罪理解と救いの理解であった。ところが、洗礼者ヨハネの罪理解、イエスの罪理解と救いの理解の重点は、明らかに個人として神の前に悔い改めることに置かれていた。新約聖書のメッセージの最も肝心なポイントなのである。