苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

N.T.ライト「別の宗教」

 このたびHBIでの教師・講師研修会では聖書宣教会の三浦譲先生をお招きし、N.T.ライトのパウロ書簡における義認と信仰に関する解釈が扱われました。一度目のお話が終わったとき、E牧師から次のような質問がありました。「先生によるN.T.ライトの教えをうかがっていると、まるでキリスト教とは別の宗教に聞こえます。そのために先生が、人生の貴重な時間を費やされるほどの価値があるのでしょうか。」私は、すごい質問、究極的な質問だなあと思った次第。三浦先生は、一定のライト支持者がいて影響がある以上、反証するために学ばねばならないと考えていらっしゃるという趣旨のお答えをなさっていました。

 ですが、「別の宗教のように聞こえる」と言われるのももっともなのです。ライトご本人は第二の宗教改革者を気取っているのですから、そう言われてもカエルの面にナントカでしょう。どういうふうにライトが「別の宗教」なのかを少々説明しましょう。

 第一に「罪観」がキリスト教と違います。キリスト教における罪とは、審判者である神の前に一人一人の人間が有罪であることを意味します。これに対してライトがいうには1世紀のユダヤ人にとっての罪観とは、ユダヤ人が神に背いてバビロン捕囚以後ずっと主権を回復できないでいる国家的問題を意味しており、パウロがいう罪とはその意味だとします。

 (ちなみに、ライトが「1世紀のユダヤ人の罪観は国家的なものだ」と断言する根拠はなんなのだろうと以前から疑問をいだいていました。そして、「イエスパウロに影響を与えたかもしれない同時代の文献にそういうことが書かれているからなのかな。」と想像していました。ところが、呆れたことに、このような罪観は何と、1世紀半ばないし2世紀の第四マカバイ書の記述に関する4世紀のユダヤ教のラビであるレビの解釈なのだそうです。いうまでもないことですが、1世紀の事柄Aと2世紀の事柄Bがあって両者に何らかの類似点が見られるならば、AがBに影響を与えたと判断するのが正常です。逆の判断をするのは、学者の不合理な「こうあって欲しいという」願望のせいでしょう。)

 第二に、キリスト教の場合、個人個人の罪の償いは神の御子イエスが十字架にかかって罪の呪いを受け、よみがえることで成し遂げられたと教えます。これに対してライトは、ライトは、イスラエル国家を代表する殉教者イエスが苦難の贖いをイスラエルにもたらしたのだという。

 (この独特なイスラエル国家の罪のための殉教者思想もまた、1世紀中頃ないし2世紀の第四マカバイ書にあるとされるものですから、イエスパウロに影響したわけがありません。)

 第三に、キリスト教の場合、義認とは、神が罪を悔い改めてキリストを信じる信仰という手段によってキリストの義を受け取った罪人を、キリストの義を根拠として義と宣告することを意味します。これに対して、ライトにおいては、義認とは神がアブラハムに対する契約に対して真実であられるゆえにイスラエル国家を神の民として認定することを意味します。そこには個人としての悔い改めはありません。そもそも問題としているのは個人としての罪でなく、国家としての罪、世界の罪ですから。

 これほど違いますから、「別の宗教」という感想を抱くのは、もっともなことだと思います。私自身のライトに関する印象を率直に言ってしまえば、彼は「言いたいこと」が聖書釈義よりも先にある人だなあということです。