「置換神学」という用語を数年前から聞きます。たいていは非難や軽蔑のニュアンスでディスペンセーショナリストが用いることばです。Wikipediaによると、
「置換神学は、新約聖書解釈の一つで、選民としてのユダヤ人の使命が終わり、新しいイスラエルが教会になったとする説である。 その根拠とされる聖句は、『ガラテヤの信徒への手紙』3章6-9節、3章29節、『ローマの信徒への手紙』2章28節・29節、4章13節、『マタイによる福音書』21章43節である。」とのことです。
そして、BFP(Bridege for Peace)は「置換神学」が西欧のキリスト教会の長年にわたる反ユダヤ主義の背景になってきたと指摘します。
「教会はイスラエルに取って代わった。ゆえに神の祝福はすべて教会のものであり、すべての呪いはユダヤ人のものである。したがって、聖書に書かれている契約と約束は、今は教会だけのものとなった」という教えです。この教えによって、悲しいかな西欧のキリスト教国は、ユダヤ人にとって最大の敵であり、迫害者という立場につくことになりました。そして、約17世紀にもわたる反ユダヤ主義という過ちに陥ってしまったのです。」(出典 ティーチングレター「置換神学とは? Part-2」|B.F.P. Japan
さらに、Got Questionsというサイトには
「リプレースメント(置き換え)神学は要するに、神のご計画の中でイスラエルは教会に置き換えられたと教えます。この神学の支持者は、ユダヤ人はもう神の選民 ではなくなったので、イスラエルの国の未来について、神は特別な計画を持っておられないと信じています。(中略)
リプレースメント神学は、教会はイスラエルと入れ替わったもので、旧約聖書でイスラエルに与えられた多くの約束は、キリストの教会において成就したと教えます。それで、イスラエルが約束の地で復旧し、祝福 されるという預言は、すべて教会に対する神の祝福の約束だという風に霊的に比喩として取ります。この見解には重大な問題があります。例えば、ユダヤ人が何世紀にも渡って存在してきたことと、特に現代のイスラエル国家の再建があります。もし、イスラエルが神に罪と定められて捨てられたというのなら、イスラエルという国家の未来はありません。過去2000年にもわたって、何度もユダヤ人の滅亡を企む計画があったにもかかわらず、すべて未遂に終わり、彼らが超自然的に生存し続けてきたことをどう説明するのでしょうか?1900年もの間、国家として存在していなかったのに、20世紀に入って、なぜ、またどうやってイスラエル国家が出現したか、どう説明できるのでしょうか?(後略)」
とあるように、「置換神学」を非難する立場の人々は1948年にイスラエル共和国が成立したことは聖書の預言の成就であると主張します。つまり、この出来事はイスラエルの民が今もなお神の選民であることのあかしであると言います。
では、聖書はなんと教えているでしょうか。とりあえず、いくつかの関連聖書について、思いつくままにコメントを付けてみます。
1.「ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちについて話しておられることに気づいた。それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。」(マタイ21:43-46)
このみことばは神の国がユダヤ人から取り上げられて異邦人に渡されたとする置換神学の根拠とされる。しかし、前後の文脈をよく読めば、この個所は神の国がイエスを拒否したユダヤ教指導者たちから取り去られ、イエスを預言者だと信じる群衆に渡されることになったと教えるものである。ユダヤ人すべてから神の国が取り去られたとは、ただちに言うことはできない。
敷衍して、イエスを拒否するユダヤ教徒から神の国は取り去られ、イエスを信じる者にはユダヤ人であれ異邦人であれ神の国は与えられるということになるだろう。
2.「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:27-29)
「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。」(ローマ4:13)
キリストはユダヤ人と異邦人との隔ての壁を打ち壊して一つにし、キリストを信じるユダヤ人も異邦人もアブラハム契約に属する一つの民となった。異邦人でキリストを信じた者は、アブラハム契約に属せられるのであるし、ユダヤ人がキリストの体である教会から排除されたわけでもない。
また、ユダヤ民族に関する契約と、教会に関する契約が別々にあるわけではない。ユダヤ人であれ異邦人であれイエスを信じるならば、同じアブラハム契約で救われ、一つの神の民=キリストのからだとなる。アブラハムの食卓には、東からも西からも世界中の民族が集うのである。
3.エペソ人への手紙でパウロは、エペソの異邦人を「あなたがた」と呼び、自分を「私たち」と呼んで次のように語りかけている。エペソ書2章11節から章末まで。
「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる『割礼』を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。
しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」
ユダヤ人と異邦人とは、一つの聖なる宮、一つの神の御住まいとなる。
3.「彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」(ローマ11:28,29)
パウロはローマ書9章から11章でユダヤ人に関する神のお取り扱いを述べているが、その最後の方で、ユダヤ人の一部はかたくなになったが、「神の賜物と召命は取り消されることがない」と言われているので、いつの日か多くのユダヤ人もキリストに立ち返るときがくると教えている。だが、ユダヤ人の救いのために別の契約があると教えるわけではない。
とはいえ、1948年のイスラエル共和国の回復が、ただちにパウロがいうイスラエルの救いであるとはいえない。(もしかすると、その準備である可能性はあるとしても。)イスラエル共和国がイエスをメシヤと受け入れたわけではないからである。しかし、ここ数十年の間に起きているイエスをメシヤであると信じるいわゆるメシアニック・ジューの出現は、ユダヤ人の多くの回復の始まりを意味する可能性はある。
4.「置換神学」を侮蔑し非難する人々は、多くの場合、「置換神学」の象徴的解釈を非難する。聖書は字義的解釈されるべきであるというのは原則的に正しい。だが、新約聖書が旧約聖書の記述を象徴的に解釈している事柄については、象徴的に理解すべきである。なぜなら新約聖書を啓示した聖霊よりも私たちが賢明であることはありえないからである。
5.「置換神学」を背景とした過去のキリスト教会の反ユダヤ主義は罪である。また、新約聖書はイスラエル民族が神の民であり続けていること、彼らの回復があることを教えていることを見落として来たことは過ちである。
他方、「置換神学」を侮蔑する人々が、イスラエル共和国が選民イスラエルが国土を回復した国なのだからということで、その政策をすべて無条件に支持するのは間違いである。そもそもイエスがメシアであることを拒否し続けているイスラエル共和国が神に立ち返ったとはいえないし、彼らが神の民であったとしても、彼らの行動に関しては是々非々で判断すべきである。もし誰かが間違ったことをするならば、それを責めてこそ、真の友情というものだろう。
神はイスラエル民族を捨てたという極論も間違いなら、神はイスラエル民族を今も選民として扱っているのだから、イスラエル共和国が何をしようと彼らを支持すべきだというのも間違いである。