教理史を学べば学ぶほど、悪魔は、昔から今日まで人間が己の罪を認識することと、キリストがその罪に対する神の聖なる御怒りを宥めるためにゴルゴタの十字架にかかってくださったことを、なんとしても覆い隠したいと願っているのだとわかる。これは、ペラギウスー(アベラルドゥス)ーソッツィーニーシュライエルマッハー以来、今日に至る自由主義神学の基調である。彼らは、神はお優しいお方であるから、罪に対して怒ったり代償を求めるようなことはなさらない。ただ人間が神に対して心を閉ざしているのを開いて、神の愛を受け入れれ、キリストの愛に倣って生きて行くならそれが贖罪となるというのである。彼らの人間観は楽観的人間観であり、彼らの神観は汎神論の無限抱擁的神観であり、贖罪論は主観説とか道徳的感化説と呼ばれる。アベラルドゥスに括弧を付けたのは、彼が主観説を説いたのは事実であるが代償的贖罪を否定したとは言えないからである。
「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」1コリント1章18節
罪深きわが身に代わり キリストは十字架につき
いのちさえ惜しまず捨てて 贖いを成し遂げたまえり
キリストの愛 われに迫れば わがいのち君にささげて
ひたすらに 主のために生く